いなくなってしまった少年の、一切の面識を持たない兄の墓に参るようになった。何故だろう、自分で問いかけてみるのにタスクには上手い答えは用意できなかった。
 ――罪悪感?
 いいや、それはここへ来ることへは関係ない。
 ――代理のつもり?
 それは烏滸がましい。
 ――期待してる?
 会えるかもって? どうしてさ、彼はいないって、僕はもう絶望を通り過ぎた場所で納得したじゃないか。
 冬の乾いた風に容赦なく晒されながら、タスクは目下の墓標に小さい、白い花束を供えて膝を折る。近くなる墓の主の名は、音に出して読み上げてもやはり舌に馴染まない。この場所で以外、決して思い出すこともないだろう。墓地のある霊園を囲む木々は、どれも冬枯れて、裸の乾いた枝を晒してどこか不気味に佇んで部外者であるタスクを驚かそうとしているかのようだった。
 未門陽太、太陽を築き、導いた少年。彼の弟は、タスクにとってかけがえのない少年だった。対等などいない、圧倒的な力で正義を行使して行き着く先が大人という正しさだと思っていたあの頃。肝心な場所で拒絶するしかないとわかっていたくせに、たった一人それでもライバルになってくれないかと手を伸ばした存在。未門牙王との出会いを、タスクは幸福と呼び、運命だと信じた。辿り着いた今は、どうしても己の過失にばかり目が行って苦々しく映る。だとしても、やり直せるならば牙王と出会ったその後からがいい。出会った真実をなくしたくない。その絶対的な分岐を許さない限り、避けられない未来として牙王との別れが用意されているとしても。タスクは牙王を大切に思っていた。否、今だってきっと――揺るぎない真実として抱えているはずだった。
 久しぶりに、世間の休日とタスクの休日が丸々一日重なって、けれど誰かと約束があるわけでもないタスクはいつも午前中に家の掃除や洗濯を終わらせてからこの場所へやってくる。そしてタスクは、この墓地で今まで誰とも出くわしたことがない。だから、少し油断していた。何も考えず、ぼんやりと見下ろす墓石の前で佇み過ぎた。ここは本来、タスクを受け入れる場所ではないのだ。

「――おや、珍しいね」

 そう背後から聞こえた言葉が自分に投げられたものであると、強張った肩が反射的に確信させていた。全く聞き覚えのない声ではなかった。そしてタスクは思い出す。未門牙王には、自分と違って血の繋がった家族がいたことを。そしてその家族を残して、牙王をひとり遠くへ行かせてしまったことを。
 振り返ると、そこには牙王の父である未門隆が立っていた。休日だが仕事帰りだろうか、スーツの上にコートを羽織り、手には何も持っていなかった。墓参りの標準的な格好や装備を、タスクはよく知らない。彼の両親は、かの大災害の折に行方不明となり未だ死亡したとの証明を受けていない。だからタスクには、日頃参るべき墓はなかった。だから、隆の格好がこの場に相応しいものなのかどうか――彼が墓参りの際はそれが息子という気心知れた存在のものであってもしっかり礼装を取るということを知らない――タスクには判断ができなかった。何より、未門家の人間に対して自分がこの場で礼儀を探ることの方がよっぽど非礼である。
 タスクは、慌てて墓の前からどいた。彼が盾になって見えなかった白い花束を見て、隆は笑った。今まで、身の覚えのない花を何度もこの墓標で見つけた。その謎がやっと解けたから。予想通りではあったけれど。

「……お久しぶりです」
「うん、本当に、長いこと会っていなかった気がするね」
「――はい」
「いつも、陽太の墓にこの花を置いてくれたのは君だったんだね。ありがとう。 ――牙王も喜ぶよ」

 真っ直ぐに隆の顔を見れないでいたタスクは、彼があっさりと口にした牙王の名前に肩を震わせて、瞳を見開いた。わかっている、タスクを責めているわけではない。悲しみをぶつけようというのではない。ただ、この気安さこそが家族の証明なのだとタスクは打ちのめされたのだ。どれだけ牙王を大切に記憶して、毎日悲しみを掘り返しても、それでも牙王は未門家の人間であることが真っ先に立つ真実だった。覆したいわけじゃないだろうに、タスクには今更そのことがとても恐ろしく高い障壁のように思えた。勘違いされたくないと焦る。今、タスクがこの場所にいる理由を。面識もないこの墓に花を添える理由を。答えなど、持っていないと確かめたばかりなのに。
 この世界のどこにもいない牙王を、けれど誰も死んでしまったとは思っていない現実に架空の墓を用意したなどとは、絶対に思われたくなかった。

「わかっているよ」

 隆の声は、以前一度牙王の家を訪れたときに訊いたのと変わらない、落ち着いた、自身の息子への信頼に満ちていた声だった。

「きみは、牙王を探すついでに立ち寄っただけなんだろう?」

 タスクは勢いよく隆の顔を見上げる。そういえば、今日の彼は以前とは違い、敬語を使っていない。それは、タスクを侮っているのではなく、牙王の(同年代の)友だちとして、子ども扱いしても非礼ではないと判断されているから。タスクとの普通の距離感を、彼は大人として心得ている。
 そして牙王を探しているという表現は、今まで誰もタスクにぶつけたことのない、タスク本人すら意識したことのない行動だった。だってタスクは、牙王が向かってしまった場所を知っている。それはとても遠い場所で、どれだけスカイサークルで空高く舞い上がったとしても辿りつける場所ではなかった。それを、嘗て牙王が暮らしていた場所で会えるかもしれないなんて歩き回ることはそもそも無駄なことだ。
 けれどどうしてそれが、タスクが牙王を諦める理由になるだろうと抗うのも、彼にとっては至極当然のことだ。だってたった一人、特別なライバルで、太陽なのだから。

「――貴方も、探してるんですか?」

 タスクの見開いた瞳から、一筋ずつ、涙が頬を伝っていく。人前で泣くなんて、随分と久しぶりのことだった。何よりタスクが牙王を思い出して泣くのはこれまで決まって夜だった。夜の、自室で一人きりになってからでなくては強がりを覚えた子どもには、とても感情の発露など行えない。弱さを見せられるのは、牙王が消えた今となってはもうジャックだけだとすら認めていた。
 けれどこの涙は、果たして弱さだろうか。タスクは、誰にでも良いから違うと否定して欲しいと願っている。
 タスクの言葉に、隆は黒縁の眼鏡の奥でそっと目を閉じて、頷いた。

「きっと、一生探してしまうだろうね」

 それは諦観ではなく、覚悟だった。一生を捧げる覚悟。果てのないことを繰り返す、その覚悟。未門牙王が、最後に選んだ覚悟と同じもの。

「だって、牙王の帰る場所はここだって、信じていたいからね」

 隆の声が、タスクの中に染み渡るまで、二回「帰る、」とタスクは呟いた。その言葉は、牙王のことを思い出すとき、はなから抜け落ちていた言葉だったから。
 何処へも帰ることはできない場所へ牙王は、彼の相棒だけを引き連れて行ってしまったのだ。一度だけタスクや、友だちを振り返り、それだけで全てを背負って光と共に消えて行った。だから、牙王はもういない。残されたタスクたちがどう努力しても、何を捧げても、現実は覆らない。過去は変えられない。未来の為に消えて行った少年に繋がれた世界で、タスクたちは生きている。

「――ぼくは、ぼくも、信じて良いんでしょうか」
「え?」
「牙王くんが、帰ってくるかもしれないって、信じたいって、思っても良いんでしょうか」
「……」
「探してたのだって、きっと無意識で。ぼくは、牙王くんの友だちに会うことすら怖がってた。牙王くんのことを忘れたことなんかないのに、牙王くんが大切にしていたのものに近付けば、牙王くんが過去になって未来にばかり進んでいく今のぼくたちの傍に彼はいないんだって、思い知るのが――」
「龍炎寺くん、」
「本当に、怖くて――!!」

 そうだ、本当はずっと牙王が消えたことに納得していたんじゃない、表面上は納得したフリをして心の中で疑問と自責を繰り返してきた。タスクは結局ひとりで逃げ回っていただけなのだ。悪い現実を、悪い夢にできやしないかと、牙王がいない世界を自分の周囲だけに押し留めて、けれど外側にはもしかしたらなんて、牙王の欠片を探しに足を伸ばしていた。
 なんて惨め、なんて弱い。独り善がり、何も変わっていない。未門牙王は消えたのだ。だからタスクは泣いている。牙王のものではない墓の前で、故人のことなど微塵も儚まないで、地面の下にも、空の上にもいないたった一人の喪失を、希望に変えられない自分を、目の前の大人のように耐え忍ぶ強さを見せられない自分を、心底厭わしく思うから。
 探していた、世界の果てまで見透かして、それでも映ることはないだろう。タスクを悲しませない世界の糧になった牙王は、自分が彼にここまで慕われていたと知っていただろうか。知っていたとしても、牙王を迷わせるに足る要素にはなれなかっただろうけれど。

「大したものだね」

 ようやく涙が落ち着いて、鼻を啜る。熱を持った瞼と頬が、ひんやりとした空気に触れて気持ちいい。しかし往来に出るにはひどい顔をしているに違いない。呼吸を落ち着けようと、深呼吸するタスクに、隆はゆっくり口を開く。本当に、牙王の父親とは思えないほど落ち着いた人だ。

「うちの牙王は、本当に色んな人に慕われていたみたいだ」
「……そうですね。牙王くんを、嫌いだと突っぱねる人に、ぼくは会ったことがないかもしれません」
「バディファイトを始めるまでは、友だちは少ない方でね。正直、信じられない気もするんだ」
「――? 何をですか?」
「牙王とドラムが出会ってからの目まぐるしい日々が、」
「それは――」
「勿論、全くの本心というわけではないよ。それを信じなければ、牙王が生きてきたことすら嘘になってしまう」
「ぼくと、牙王くんの出会いも――」
「そうか、それもそうだね」

 タスクは、見上げる隆に大人と、父親の情を垣間見る。大人はきっと、タスクのような子どもよりも色々な物を切り捨てて、割り切る方法を知っている。生活の習慣の中からたった一人を弾きだすことくらい簡単なのだ。けれど親は、子どもの為に何一つ躊躇わない強さを持っている。隆は――未門家は。その内側から牙王の存在を打ち消したりする日は決して選ばないのだろう。
 そして、タスクもまた選び直す。家族ではない、牙王を介してしか、彼の大切な友だちとも殆ど面識を持たない。頼りない縁だ。けれどその全てで、タスクは牙王がここにいたことを自身に証明し、不在を受け入れ、だからこそいつかの帰還を夢に見る。途切れるまでは果てのない夢想だ。それでも今のタスクは一切の恐怖に躊躇うことなく進むべき道を決めた。

「しかし今日は、冷えるね」
「――冬ですから」

 太陽の昇らない、冬ですから。
 タスクは空を見上げて、真冬の空に浮かぶ白々しく霞む太陽に目を細める。
 もっと眩しい太陽をぼくは知っている。誰もが心に持っている太陽に、温かい炎を灯すように真正面からぶつかってくる輝きを覚えている。耳の奥で、懐かしい笑い声と自分の名を呼ぶ声を、タスクは聞いた気がした――。




■突き刺さるような寒さの日に、ふときみの悲鳴をきいたことがないと思い出した。
20141116