時計を見ると、日付が変わる直前だった。明日から学校ではテストが始まる。机の上に広げていた勉強道具を鞄に仕舞って、電気スタンドのスイッチを切る。長時間集中していた所為で、目が疲れていた。 バディポリスもよほどの緊急事態じゃない限り、明日から三日間はタスクに連絡を入れることはしないことになっている。こういう処置が、タスクの本分が学生に、子どもであることのように思われて仕方ない。けれど、タスクは世間の為の建前が必要であることを知っている。幼いからこそもてはやされるタスクの実力は、学生という子どもらしさを全うしてこそ滞りなく揮うことができる類の力なのだと、近頃になってようやく理解できてきた。知ったことかと突っぱねるには、世間は図々しく、押し付けがましい目線で龍炎寺タスクという子どもを見守っているつもりなのだ。タスクがテストで赤点など取って学生としての生活に支障が出ていると噂が流れたら――支障も何も、僕は何も強いられていないのに――、世間はあっという間にバディポリスがタスクに無理をさせていると責めるのだ。対象が間違っているし、指を差すだけの人間は決まってタスクに(望んでいないにしても)何もしてくれないのに、うるさい。 ――これは捻くれた考え方だ。 タスクは凝り固まった身体を解す様に伸びをして、それからコアデッキケースを持ってベランダに出た。夜風は流石に冷たくて、寝間着にパーカーを羽織っている上は兎も角、直接風に晒された足首からじわじわと熱を奪われていく。 見上げると、ぽつぽつと星が光っていた。都心である超東驚の夜空は、バディスキルでかなり高くまで舞い上がらないと、あまり美しいとは言えない。それでも、タスクは夜空を見上げるとささくれだった気持ちが落ち着いていくのを感じる。空はタスクを煩わせない。ジャックのバディスキルで飛んでいると、境界線のない空をどこまでも行けるのではという錯覚すら覚える。その錯覚は、現実に引き戻されたとき、タスクに清々しさと寂しさを与えるものだ。行こうと思えば、いつだって、どこへだって行けるという喜び、清々しさ。どこまで行っても、何も変わりはしないという寂しさ。 『風邪をひくぞ』 タスクの思考を断ち切ったのは、バディであるジャックの声だった。家の中であってもできるだけジャックを手放さないよう意識して、デッキを持ち歩くのは我ながら神経質すぎるかもしれない。タスクはジャックに「わかっているよ」と答えながら、それは自身へ向けての言葉でもあることを理解していた。 ――わかっているよ、最近のぼくは神経質だ。 もしくは簡単に物憂げに沈み過ぎる。ひとりでいるといつもこうだ。 ――でも失くしてしまったものが大きすぎて、どうやって立ち直っていいかもわからない。 立ち直れるかも、立ち直りたいかもわからない。タスクの心は、奥底の方で迷子のように拭えない心細さをいつだって抱えていた。 『――タスク』 わかっていると言ったくせに、いつまでも夜風に当たっているタスクを叱るようにジャックが唸る。珍しいことだ。心配も迷惑も掛けてきたことだろう。けれどタスクを嗜めるジャックの声はいつだって慎み深い、落ち着いた、それでいて威厳が備わっていて、タスクは彼に尊重されていることをいつだってひしひしと感じてきた。勿論、今だって尊重はされているのだろう。けれど今のジャックの声は昔よりずっと親しみを感じるのだ。家族という言葉が似合う――家族にだって色々な形があり、タスクとジャックはこれまでも家族だったが――、そんな柔らかさ。 タスクはもう一度「わかっているよ」と答えると、部屋の中へ戻った。窓を閉めると、急に周囲が静かになる。時計を見ると、日付が変わっていた。 「もう寝ようか」 タスクの提案に、ジャックは沈黙している。ジャックに人間と同じだけの睡眠時間が必要かどうか、ドラゴンワールドとこちらの世界の時間の進み方が同じかどうかもわからない。タスクも、深い意味を持って誘うような文句を使ったわけではなかった。 けれど、ふと懐かしい話を思い出した。同じドラゴンワールドのモンスターでも、SD化を拒み、普段はドラゴンワールドで生活しているジャックとは違い、常にこちらの世界に身を置いていたバディであるドラムバンカー・ドラゴンと、同じベッドで一緒に寝ているという話。 「――牙王くん、」 唐突な名前は、タスクの生活スペースである部屋に一瞬にして波紋を広げるように反響してタスクを飲み込む。 ――牙王くんは、ドラムと一緒に寝てたんだってよ。 そんなこと、ジャックに話してもリアクションに困るだけだろう。だけど寄り添って眠る彼等はきっと微笑ましかっただろう。恐らくは、ベッドの幅をどちらが大きく占領しているかとか、ささいなことで喧嘩もしたに違いない。 「牙王くん」 もう一度呼んだ名前は、今度は空間ではなくタスクの内側を震わせて、彼の瞳からその衝動を溢れさせた。眠る前に泣くのは、良くないのに。 ぽたり、床に落ちた水滴。涙は溢れるけれど、不思議と呼吸は苦しくない。ただ胸が痛い。コアデッキケースを握る手に力が籠もる。ジャックの気配が動く。いくらタスクが力を込めても、ケースを壊す程の握力はないのだから苦しくはないはずだ。だから単純に、此方の様子を窺っているのだ。「大丈夫か」だとか「泣くな」だとか、出尽くした心配はタスクに何の効果ももたらさないから、今ではもう彼が泣き止むのをジャックは静かに待っている。それでも決してタスクがひとりではないということを忘れないよう、その気配は感じられるように気を払いながら。 間違っても、君は悪くないなどという痛々しい言葉を放ってしまわないように――。 その危機を簡潔に説明するならば、地球と異世界を繋いでいた扉が閉じてようとしている状況だった。それぞれのワールドを繋ぐ扉は、勿論比喩であってタスクたちがイメージするような扉の形をしているわけではない。けれど誰かが出向いて行って、その扉を押さえなければ、バディモンスターたちはもう人間界にやって来ることはできなくなり、世界中からバディファイトが消えてしまう。それは人間の世界とバディモンスターの世界の交わる曖昧な境界で、どちらでもあるけれど、どちらでもない場所にある。だから――何度振り返っても、タスクは何がだからなのか上手く意味を咀嚼することができない――、その扉を押さえる役目を終えた人間は、地球にも異世界にも、何処へも帰ることはできないのだと。そこでは個体は意味を持たず、ただ世界を繋げる意思だけが残る。道は、片道しかなかった。命を懸けるよりもずっと重たい、悠久に飛び込むには、躊躇って当然の子どもたちしかいなかった。そうして真っ先に飛び込んだのは、意外でもなんでもなく、未門牙王だった。 未門牙王とそのバディであるドラムがこの世界から消えてしまった日。牙王は最後に、タスクに向かって笑いかけた。意思の強い瞳とにっと歯を見せて、あれはそう、まるでこれからバディファイトを始めようとしているような、そんな気がしてしまうほど牙王の気配は明るかった。そんな状況ではなかったのに。 だからタスクは怯んだのだ。目に映るものと現実の違和感に気を取られて頭の処理が遅れた。踏み出し損ねた一歩、伸ばし損ねた腕、何にも触れることなく空を切った指先の虚しさ。目の前に広がった、太陽の永遠の消失。誰も彼もが呆然として、そして一拍の後に泣いた。けれどタスクはいつまでも呆然としていた。見兼ねた誰かが、帰ろうとタスクの肩を押して促すまでずっと光の消えた場所を見つめ立ち尽くしていた。 そしてあの場所に、タスクも永遠に何かを置き忘れたまま生きていくのだろうと、漠然と予感した。未門牙王のいない世界。それを受け入れる為には、自分も何かを捨てなければ、そうでなければあまりにも無神経だと思ったのだ。 牙王は世界のどこにもいない。バディモンスターの世界にも。けれど牙王はどの世界のどこにだっていて、だからタスクの傍にはジャックがいる。同じように牙王の大切な友だちはバディと一緒にバディファイトを楽しむことが出来る。でもそれは、牙王が果たすべき責任ではなかったのだ。タスクは遠くから、何回も牙王の友だちが、家族が悲しみに俯くのを見た。彼は、大勢の心に居着き過ぎた。 太陽が当たり前のように見上げた空に昇っていなければ不安になることを、タスクは知った。牙王が当たり前のようにタスクの世界で輝いていなければ陰りがさすことを、タスクは牙王に教えてやりたかったと腹立たしくも思った。 何故僕がいかなかったのだろうと自問し、何故一緒にいかなかったのだろうと後悔し、何故牙王くんがいってしまったのだろうという現実に追いついたとき、タスクの瞳から涙が零れたのは牙王が消えてから随分時間が経った日の夜だった。 ――牙王くん! 牙王くん! いない! 何で、いない、いないんだよ、牙王くんが! いないんだ!! 泣き叫びながら、部屋中の物に当たり散らかすタスクをジャックは止めなかった。慰めは後から、意味がないとお互いがわかっているという前提の元で届けられた。 タスクは今も、牙王を失う前と変わらずにバディポリスとして世間の注目を集めながらクリミナルファイターと闘っている。 ベッドに潜り込むと、どっと疲れが押し寄せた。先程まで勉強していた内容は、振り返ろうにもすっぽり頭の中から抜け落ちてしまったらしく、しかし焦りも湧いてこない。自分は不真面目な人間だと、タスクはただ唱えてみる。 「――ジャック」 『どうした?』 「ぼくはね、一日でも早く大人になりたいと思ってた」 『……知っているとも』 「だからかな、最近よく考えるんだ。牙王くんは、何になりたかったんだろうって」 『……タスク』 「ぼくたちは――ううん、ぼくの方だね、大人になりたいと未来のことを簡単に語るくせに、いつだって目の前のことしか見えてなくて、考えられなくて、ライバルになって欲しいって牙王くんに手を伸ばしたのはぼくなのに、ぼくは牙王くんとどうしたかったのか、どうなりたかったのか、きちんと考えたことなんて全然なかった」 『――――』 「牙王くんには、もしかしたらぼくのライバルになるよりもずっと素敵な未来に繋がる夢があったのかもしれない」 『タスク、怒るぞ』 「そうだね、こういう考え方も、言い方も、牙王くんはきっと怒るだろうね」 履き違えない、理解の相手。出会わなければ良かった、あの日、あのカードを牙王に託さなければ良かった。それは最も陥りやすい愚かな運命の分岐への後悔で、けれどタスクが真っ先に排除した悲しい仮定だった。 牙王に出会えてよかった、彼にあのカードを託して良かった。信じている、揺るがない。ただ、だからこそもっと違う結末が欲しかったのだ。その為に、牙王ではなく自分はどうするべきだったのか、考えて、考えるだけだと言い聞かせて、タスクは己の全てを嘆く。 そうだ、タスクは一緒に闘ってくれるライバルが欲しかったのだ。それは勿論クリミナルファイターとではなく、タスクと。強者として名を馳せたタスクが、彼の目的の為に仕方がないと切り捨てるしかなかった同年代の、バディファイトを純粋に楽しいと思ってくれている相手と、気兼ねないファイトをするという当たり前のことを叶えてくれる相手。きっと、ずっと無意識に探し続けていた。そして見つけたのが牙王だったのに、どうして「違う」と思ってしまったのだろう。眩しさを凶器のように感じたのだろう。 わかっている、タスクが、タスクのことだけを考えていたからだ。牙王は自分とは違う人間で、違う価値観で、正義など求めてはいない、楽しいバディファイトをしていればそれでいいのだから。だからぼくが――! 『タスク、そろそろ本当に眠れ』 「うん、そうするよ。テストも始まるしね」 『赤点を取らないようにな』 「――ジャック、赤点なんて言葉知ってるんだ」 『…………昔、未門牙王とバディが騒いでいた。テストが赤点で、母親にどやされるとな』 「ふふっ、牙王くんとドラムらしいなあ。 ――それじゃあ、寝るよ。おやすみ、ジャック」 『ああ、良い夢を』 本当に、このバディは人間らしい言葉を覚え始めている。 ――良い夢を、か。 電気の消えた暗闇の中ではわからないだろうが、タスクはふっと口元を緩めてそっと瞼を閉じた。ジャックの願い通りに良い夢を見られるものならば、どうか。せめて夢の中でもう一度、牙王に会いたいと願いながら。 真っ暗な部屋の中には、タスクの寝息だけが聞こえる。彼の枕元に置かれたコアデッキケースに収められたジャックは、その健やかさに胸を撫で下ろしながら、タスクと同じように太陽が消えてしまった日のことを思い出す。そして、どうやらタスクには――他の残された仲間たちにも――聞こえていなかった、牙王とドラムの最後の会話を、ジャックはこれまで何度も繰り返す反芻してきた。 ――なあドラム、本当に良いのか? ――ああ? まさか今更オイラは連れて行けねえとかくだらねえこと言うんじゃねえだろうな! ――だってお前、夢があるんだろ? ドラムバンカー一族の強え親父さんに認められて、跡継ぎになりてえんじゃなかったのか? ――まあ、そうだな。 ――俺と一緒に行っちまったら、それ、どれも叶わなくなるんだぞ? ――バカ牙王! ――んだとお! ――バディのお前をひとりで寂しい途方もない場所に放り出してまで叶えたい夢なんてオイラにはねえよ!! ――ドラム……。へへ、ありがとな! じゃあ、最後まで付き合ってくれ。頼むぜ――相棒! ――おう、任せとけ! 最後まで、揺らがない二人だった。世界でたった一人と一体、最高のバディ同士だった。何の不安もなく、踏み出したのだろう。そしてその直前、牙王はタスクを振り返って、笑ったのだ。 『それじゃあ、行ってくる。 ――またな、先輩!』 それは既に光に溶け始めていた牙王の、タスクの耳に届くことのないとても静かな挨拶だった。 残酷で、優しくて。――いつかまた。そう願わずにはいられない、それが、人間よりもずっと長い時間を生きてきたジャックが永遠に忘れないだろうと心に刻んだ、眩しい太陽との別れだった。 ■いつか聞く日がくるのだろうかと考えながら、ぼくは今日も眠りについた 20141115 |