「お母さんになりたい」
呟いた春奈の隣で木暮は首を傾げた。それは世間一般で言う母親なのか、それとも春奈の母親を羨んでの言葉なのかを一瞬測りあぐねた。だが春奈の両手が自身の下腹部に添えられていることから鑑みれば恐らく前者なのだろう。そしてそれを理解した途端、木暮は露骨なまでに不愉快そうに眉を潜めてみせた。彼は母親というか、肉親とかそういったものに好意の目を向けてはいない。それは春奈も承知の事実であった。それでも春奈は敢えて木暮の前で呟いたのだ。「お母さんになりたい」と。

「お母さんになりたいの」
「勝手になれば」

それは無理でしょう、と春奈は自分の下腹部に手を添えたまま笑ってみせる。
不思議だなあ、と思う。保健体育の教科書を眺めているだけではどうにも納得できないほどに、春奈は不思議でならなかった。自分は女だ。だからいつか子供を産む事が出来る。新しい命を自身の中に身籠る事が出来る。しかし自分のお腹に手を当てて指で突いてみたり押してみたりさすってみたり。とても赤ん坊一人を匿える程のスペースが自分のお腹に在るとは思えないのだ。それは秋さんや冬花さんのお腹にしても同様だった。兄に素直に打ち明けてみれば、少しだけ困った顔をしながら、少しずつ理解できるようになるよ、と言われた。彼にもいつか、愛する女性が出来て、その人との子供を授かる日が来るだろうか。来ればいいと思う。同じ母体を通してこの世に生れ出た、もうこの世にたった一人となった肉親に、新しい家族を与えてあげられるのは残念ながら決して自分では無い。そして春奈に新しい家族を与えてあげられるのも、もう鬼道ではないのだ。
春奈の隣に立つ木暮は今では不愉快よりも不可解が先行していて、春奈の目線を追う様にしてその目線は彼女の下腹部に辿り着く。見慣れた制服のスカートに覆われたその下に、いずれ彼女は彼女が愛した人との新しい命を宿すことだろう。幸せになれば良い。そう思う。自分の薄暗い地面に落とされていた視線を、その背中を押して前を向かせてくれた春奈に、木暮はただ無償の愛と幸せを願う。自分と出会うよりもその前。彼女もまた辛く暗く寂しい思いをしていたようだけれど。それでも木暮は春奈こそが愛される為に生れて来た命だと信じていた。
隣に立つ音無春奈という少女が、徐々に女性となって音無の姓を捨ててやがて母となる頃。自分はいったいどんな風に彼女と繋がっていれるのだろう。そもそも繋がっていれるのだろうか。きっと今より格段に細い関係になってしまっているに違いない。そんな自分の妄想に少しだけ傷つく。だけど、彼女の幸せにいつかたった一言でいいから素直に「おめでとう」の言葉を贈れるくらいには、自分も成長していれたら良い。望むものはささやかである。大それた望みを抱くほど、木暮は残念ながら既に子供では無かった。

「私がお母さんになったら、」
「毎日私の子供をぎゅっと抱きしめてあげるの」
「私がお母さんにして欲しかった事を、」
「私は全部その子にしてあげたい」

一つ一つ絞り出すように言葉を紡ぐ春奈は、まるで既に身籠っている妊婦の様に優しく自分の腹を撫でる。泣きそうな笑顔から零れた一滴は確かに春奈の手に落ちた。願う事はいつだって容易い。だけどそれを口にするのは思っている以上に難解な事なのだと、二人とも知っている。裏切られる怖さも、失う虚しさも知っている。だから寄り添う事は出来ても凭れかかる事は出来ない。

「木暮君は、お父さんになったら一番何をしてあげたい?」
「……、俺は、父親にはなれないよ」
「もしも、だよ」
「……ずっと、一緒にいてやりたい」

孤独など、他人に与えられたりしない程度には、守ってやりたい。木暮の言葉に、春奈は目を細めて静かに泣いて、笑った。木暮も、そんな春奈の反応が可笑しくて、笑った。いつもの皮肉った笑顔では無くて、静かに笑った。
今二人がこうして一緒にいる事に、理由をこじつけたりは出来なかった。それをしてしまえば、その理由一つが壊れた瞬間に離れ離れになってしまう気が、お互いにしていた。たった一言の「好き」が延命作業の様に感じられて、言葉を発することを億劫にさせた。嫌われていない、その曖昧さでも十分だった。だから未来を考えるのはいつだって難しい。子供じゃあ、自分達の間に存在する物理的距離を埋められない。だけど大人になればきっとより一層心的距離を埋めるのが困難になるんだろう。無駄な見栄と意地はきっと二人を拗らせて思い出に変えていくのだ。
「私の子供の髪の色が、青かったらいいな」
木々の葉を舞わせる程の風に攫われた春奈の言葉は、掠れて木暮の耳にそっと響く。赤子を抱く春奈の姿を想像しながら、自分の髪に触れてみる。自分の色は、彼女の青よりも少し明るかった。






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