何も知らないでいられた、あの頃に戻ろうか。頭の中で、今より幼い私が手招きする姿が浮かぶ。無知であったが故に最愛の、たった一人の家族とあれ程に擦れ違ったと言うのに、それでも私はあの頃に戻りたかった。只々、目の前で繰り広げられる輝かしい世界に、瞳を開いて、憧れて、飛び込んでいける。そんな勇気を持っていた、私らしい私に。
恋をすると、女の子は可愛くなると言う。それは好いた相手に少しでも良く思われたくて、あれやこれやと努力を惜しまないからだ。だけど、結局可愛いとかそういうもの全部、自分自身で与えてやれる称号では無いのだ。
私の努力は、残念だけど、立向居君には届いていなかったみたい。憧れの背中と世界と云う夢の舞台ばかりを見つめる彼に、そんな彼を好きになった自分を棚に上げて、苛立つ気持も事実で。この先輩だらけのチームの中で、同い年という事は、大したアドバンテージにはならなかった。それだけチームの仲が宜しいのは結構だ。
マネージャーの仕事もあるから、お洒落なんてそんなに出来る事じゃない。それでも。頑張ったつもりだったのになあ、と溜め息を一つ。笑顔を絶やさず。仕草の一つ一つが粗雑にならないように。廊下は出来るだけ音をたてないように。女の子らしい所作を意識して、日々を過ごして数か月。立向居君は今日も変わらず元気に輝いた様子でゴールを守っています。
要するに、私、ボール以下じゃん。そこまで考えて泣きそうになったので慌てて洗濯機の様子を見にグランドから走って出ていく。木野先輩の気を付けてね、という一言を背に受けながら、こういう気遣いが出来る女の子は可愛いんだろうなあ、と思う。
洗濯機はまだ回っていて、しかし既に脱水の工程に入っているのならばもうすぐ洗い終わる。そのまま洗濯物を干してから戻ろう、と洗濯機の横に腰かけて終わるのを待つ。

「音無さん!」
「…立向居君?」

聞き間違えようもない声に、俯きかけていた視線を上げれば、こちらへ向かって来ていたのはやはり立向居君だった。彼が此処へ来ると言う事は今は休憩時間だろう。だがドリンクもタオルも十分用意してあるし、何より木野先輩と冬花さんがいるのだから大丈夫だと思うのが。

「どうしたの?」
「いや、木野さんが、戻ってくるのが遅いから心配してて…」
「ああ、折角なので洗濯物を干してから帰ろうと思ったの!悪いんだけど、伝えてもらえる?」
「ああ、うん、」
「?なに?」
「えっと、暫く、此処に居てもいいかな、その、休憩時間だけだから!」

何やら必死に訴えてくる立向居君の勢いに若干気押されながら、何とかどうぞ、と告げる。何だろう。この場所はそんなに立向居君的にベストポジションなんだろうか。確かに、すぐ傍に洗濯物干場があるだけに風通しは良い。なにやら立向居君の顔は赤いし、熱を冷ますにはうってつけの場所なのかも知れない。
それにしても、こうして二人きりなのに、何も起こらないということは、やっぱり立向居君は私なんかには興味がないのかなあ。そう思いながら見上げた空は、雲ひとつない見事な晴天。私の心も、こんな風にすっきりしてしまいたいなあ。本当、勇気なしの意気地なしだ。こっそり吐いた溜め息は、隣に座る立向居君の溜息とシンクロして消えた。






- ナノ -