朝起きて、当たり前の日常が始まるなんて、一体誰が保証してくれるというのだろう。
始まりはいつも怖いもの。自分より先で手招く姿は見えるのに、下げた視線にくっきりと映り込むボーダーラインはまだ越えられない。
いつか、いつか。便利な言葉。狡い言葉。酷い言葉。またね、いつかね。先延ばしにされた約束と宣言が消えない。

「おはよう」

掛けられた言葉に、風丸は同じように、おはようの意を込めて円堂を見つめ頷く。それだけで、円堂が笑うから、風丸は頭の中で繰り返し刻む。円堂の前では笑っていようと。涙も不安も悲しみも全て一人抱えていようと。

「風丸、今日の授業なんだけどさ」

他愛ない言葉ばかりだ。それでも大勢の人間を押し込めた箱の中で円堂がたった一人真っ先に駆け寄ってくれるから風丸は存外学校というものを好いていた。正確には、円堂を、たった一人、好いているのだ。

好きでいるのは簡単だ。一方通行だろうが隠し秘め口にすることは憚られたとしても、それは大したことではなかった。それが風丸の臆病さでしかないとは、誰も気付かない、気付かせない。他人、友達、家族、円堂。誰も知らないのだ。
一人自己満足に埋もれた世界。深海のように暗くて深くて冷たい。誰も掬うことなど出来ない。愛なんて清らかなものを翳してしまえばきっと風丸は光に焼かれて影だけを残して消えてしまうのだろう。
それでも風丸は円堂の隣りを諦めない。暗黒は歩けない。円堂の灯す光が、風丸の世界にとって最低限たった一つ必要不可欠。

ごぽり、ごぽり、

温かさに寄りかかり段々と沈み込んで行く。光が少しずつ遠くなる。怖くて掴んだ腕は確かに円堂のもの。

「こわい、」

吐き出したのは、風丸だったか、円堂だったか。風丸の手を、円堂は振り払わない。昔から、いつだってそう。そこにいるよねと確かめる為に触れるならば、逆にどこに行くのと縋る弱さが要る。
二人きりでは生きられない。二人は世界を作らない。それでも今お互いを確かめては沈む身体を引き上げる術もなく相手を道連れに引き込むことを厭わない。お前だけでも、そんな劇的な台詞は言わない。片割れを失って生きれる誰かはまだ心が強いのだ。失った欠片を忘却と記憶の線上に置いて、時々爪先で忘却寄りに蹴飛ばすの。飛び越えて前を見て生きる人もいるんだろう。
強さだろうか。ならば風丸は強さなど持たず弱さを盾に円堂を引き摺り落とす愛を選ぶ。

「風丸、風丸」
「大好き、ずっとずっと大好き」
「だから、」

ありがとう、微笑めば円堂はごめんと大好きを繰り返して俯く。
太陽が、沈む頃。世界が暗く夜を与えられる頃。とある子ども達の世界の太陽が沈んでしまう。気付くだろうか。朝は来るのだ。宇宙と時間は人間に干渉されない。ただ当たり前の日常は来ない。それだけなのだ。
攫ってしまえる。臆病さ故の闇で優しくくるんで抱きしめていられる。笑顔も涙も見せないで良い。だけど、もう帰してはやれない。

「円堂、」
「好きだよ、ずっとずっと、好きだ」
「だから、」


ずっと此処に堕ちてね。






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