夢を見た。とても幸せな夢だったはずなのに、目が覚めるとその夢はまるで霞がかったみたいに脳裏をぼんやりと霞めるだけで、具体的な映像で思い出す事は出来なかった。
暫くベッドの上で座ったままでいると、台所の方から美味しそうな匂いと音が聞こえてくる。リカが朝食を準備する音だ。別に今日が初めての出来事じゃないのに、俺の胸はぎゅう、と締め付けられるように痛んだ。悲しいんじゃない、嬉しいからだ。
俺とリカが同じ部屋に住み始めてもう何か月目になるんだろう。冬の初めに始まった俺達の共同生活は国籍の違う人間同士の馴れない生活習慣の違いも合って何度か揉めて、擦れ違って、だけどいつもどちらかが絆されて折れて元通り。その回数は俺の方が圧倒的に多いんだろうけど。誰かと日々を重ねていける事をこんなにも愛しい事だと思える自分を、大人になったねと、リカと出会った頃の自分が褒めてくれている気が、偶にする。
寝室のカーテンの隙間から入ってくる太陽の光は柔らかい。春の暖かさだ。数日前から季節は格段に冬から春へと近付き、日中も過ごし易い気候になって来た。リカも買い物に行きやすいとか、洗い物も漸く億劫でなくなると非常に喜んでいた。俺は正直、夜一緒に眠る時に、リカが寒いと擦り寄ってきてくれたり、冷えた足を暖め合ったりとか、リカが俺の為に編んでくれたマフラーが使えなくなる事とかが、ほんの少し、残念だったりもする。そんな俺に、リカは昔と変わらない懐っこい笑顔で俺を見上げながら、二人で迎える初めての春に、何をしようか、と尋ねてくる。ここは日本ではないから、サクラを見に行くお花見は出来ない。昔テレビで日本のお花見の様子を見た事があるけれど、お祭り好きなリカが好きそうな行事だと思ったのを覚えている。
アメリカで春のイベントと云ったら、イースターかなあ、と思う。俺はキリスト教徒ではないし、リカも一通り説明してもよくわかっていないみたいだった。ただ卵に絵を描くのを楽しみにしている、と言っていた。

リカと一緒に暮らすようになって、その前からも、俺はずっと心の何処かで怯えている。リカが俺から離れたらどうしよう。リカが乗り越えた幼い恋心は淡い思い出となって未だ彼女を色濃く縁取って俺の目にくっきりと映し出される。俺の隣にいるリカが、決して幻ではないと確かめるように、リカを抱きしめればいつだって彼女は笑って優しく抱きしめ返してくれる。弱虫な俺はいつも寒い、と言葉を濁して誤魔化してきた。そう言えば、春になれば、そんな言い訳は通じなくなってしまう。
急に心細くなってやっと寝室を出る。洗面所に向かうより先にリカがいるであろう台所に向かえば、俺に気付いたリカがいつも通りに「おはよう」と迎えてくれるから、何だか泣きそうになって「ありがとう」なんて頓珍漢な返事をしてしまった。リカは笑って「寝ぼけてるん?」と俺の髪に触れる。きっと寝癖になっているのだろう。俺に触れた彼女の左手の薬指にはシルバーのリング。一緒に暮らし始める前に俺が贈った物。こんな指輪一つで、俺は妙に安心する。

「起きたら急に春らしくなってたから、びっくりしたんだ」
「そんなに?マークどないしたん?」
「冬が終って春になった途端、リカがいなくなってたらどうしよう、って思った」
「マーク?」
「だから、本当に、リカがいてくれて、良かった」

何かが急に満たされて、俺はリカを抱きしめる。当たり前の様にリカが俺をマークと呼んでいる。いつもの様にリカが俺の背中に腕を回す。これは、俺だけの物。
寝癖で普段よりはねた髪が顔にあたって擽ったそうなリカは、くすくすと笑っている。その笑い方は、彼女が少女から女性へと変化する中で無意識に覚えていた、母親の様な笑い方で、俺を甘やかす時によくこの笑い方をしていた。

「マークは心配症やねえ」
「そうかな?」
「絶対そうや。だってウチはもう随分前からマークしか見とらんのやから」
「リカ?」
「だからそんな、一人ぼっちの迷子みたいな表情せんといて」

どうやら俺は随分独り善がりな遠回りをしていたらしい。リカを抱きしめる腕に少しだけ力を込めながら、今朝見ていた幸せな夢について考えてみる。そしてすぐにどうでも良くなった。だって今のこの現実以上に幸せな夢なんて、きっとないから。






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