「一之瀬君は、そこにいてね」と呟く秋の姿は、もう俺には薄ぼんやりとしか思い出せない。多分、秋は俺を輝かしい存在として見ていたから自分とは違う、手の届かない場所で輝いていて、という意味で俺にこの言葉を投げたのだ。自惚れなどではなく、きっと。けど実際は、俺は秋の言葉に置き去りにされているっていう現実に、随分前から気付いている。きっと俺は、秋の背中を見ているけれど、秋は俺の背中が見えない事なんて当たり前、と一笑してそれで終わりなんだろう。

「一之瀬君、今日一緒に帰ろう?」
「ああ、じゃあ放課後教室まで迎えに行くよ」
「うん、待ってるね」

部活動が休みの日。俺と秋は結構一緒に帰る。昔からの友達という関係で。それでも、こうして授業の合間の休み時間になる度に、秋が誘いに来てくれるのを、俺はもう習慣の様に待っていた。
一方通行と知っていながら、秋の一挙一動に振り回されてそれを心地よく感じている自分に、俺はもう若干諦めを覚え始めている。我ながらマゾヒストな一面もあったんだなあ、と感心もしてみたり。
秋は円堂が好きだ。だから俺は、秋に好きと告げては駄目だ。こんな等式を、教室の一番後ろの席で授業中、ルーズリーフに書き込んでみる。HBの芯で書いたその文字は思ったより濃くくっきり著されていて、自業自得の溜息を一つ。
「そこにいてね」と秋は言った。もしかしたら秋は覚えていないかもしれないだろうけれど。女の子だった秋は、俺に憧れと幼い恋心を混ぜた感情を以て俺に願ったのかもしれない。だから俺はいつだって今だってヒーローになりたかった。
俺の前方には今の秋の背中。その手前に横断歩道。信号は赤。俺は秋に向って歩き出せない。一人で赤信号を渡るには、俺の良心は意外に大きいし弱い。何より交通事故は怖い。俺はぼけっと立ち尽くしている。秋はこちらを振り返らない。
気付けば教室の板書は大分進んでいて、俺は慌ててシャープペンを握り直す。途中で先程書いた等式が邪魔になる。消しゴムで消しても文字跡がうっすらルーズリーフに残っていて、俺はまた溜息を一つ。

帰り道。俺と秋は並んで歩く。さりげなく車道側を歩くのは、俺がアメリカで身につけた対女の子への気遣い。秋は気付いていないかもしれない。気付いていても、俺の下心に気付いていないのなら、結果同じ事だ。つまりは無駄な事。
交差点。横断歩道へ足を踏み出した瞬間、信号機が点滅し出す。急いで渡りきれば、反対側に秋の姿。どうやら秋は信号機の点滅を見て足を止めてしまったらしい。

「ごめんね」
「大丈夫、俺も急ぐ必要なかったね」

車は来ない。車道を挟んでの会話。ふと、授業中に考えていた事を思い出す。今、俺達はこうして向かい合っているけれど、すごく遠く感じるのは、きっと俺の妄想が加味されているからに違いない。もしも俺が、秋に車が来ないからもう渡っちゃいなよ、と言っても真面目な彼女は絶対に赤信号を渡らないように。今、円堂を思っている秋は、仮に円堂が秋以外の誰かを選んだとしても過去の俺への想いを振り返って、それに手を伸ばしたりはしないのだろう。
湿っぽい思考の途中、信号が青に変わり秋が小走りでこちらにやって来る。もう一度、二人並んで歩きだす頃にはどうしてか俺は普段の様に秋に話題を提供して場を和ます事すら出来なかった。秋が進行方向に真っ直ぐ視線を向けている事にすら今の俺は堪えられそうにない。その先に円堂がいたらどうしようなんて、この数分で自分が赤子並に弱くなってしまった気がして足もとの真黒い影をひたすら凝視している。
秋はこの沈黙を対して気にしていないのかずっと前を見ている。俺は下を見ている。視線すらぶつからない俺達の気持ちはずっとぶつからない。だから、時々俺の手を掠める程近くに在る秋の手を、冗談めかして握ることだって俺には到底不可能な事だった。
秋が憧れた男は、実際にはこんなにも惰弱な人間なんだよ、なんて打ち明ける勇気も今の俺にある訳なかった。






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