▼冬樹と桃華


 冬樹は基本的に興味のないことには受け身を貫く少年だった。しかし興味のあることが一般人からすると珍しいものであったことと、災難として降りかかることが宇宙人によってもたらされる奇天烈なものであることが大半だったことから、その受け身の姿勢と対応は達観して懐が広いようにすら見えてしまっていたことは冬樹自身意図しないことだった。苛烈な姉と比べても、他の人たちと比べても気性は穏やかだったし、地球を侵略しようとする宇宙人にそういう類が好きだというだけで危機の認識よりも友情と共生を優先した本能がある意味異常だったのだ。
 そんな冬樹だったので、恋愛という事柄に自らを積極的にのめり込ませることをしなかった。バレンタイン等の世間のムードとして恋愛一色に染まると流石に男の自分よりも女の子に人気のある姉を思って複雑な気持ちになったりもしたけれど。時期を過ぎればまた冬樹は自分の趣味を楽しむ子どもに戻ってしまう。中学に入ってから同じ部活に所属することになった桃華はまごうことなき女の子で、傍から見ていると露骨なまでに冬樹を異性として好いているのが見て取れるのだが、当の冬樹はそんなことてんで気付かないと言わんばかりの鈍感ぶりを発揮して異星人達すら戦慄させていた。

「冬樹君、フランスで何かお土産に欲しい物などありますか?」

 帰り道、冬樹の家に寄っていくからと一緒に歩く桃華からの質問に、冬樹は一瞬理解が追い付かずに答えることが出来なかった。単純に、桃華が近い内にフランスに出掛けるのだなということを理解することすら出来なかった。家の用事で彼女が世界中に出掛けてきた話を聞くことは珍しくないのだけれど、こうして事前に打ち明けられてお土産の相談までされたことはなかったような気がしたからかもしれない。

「西澤さん、フランスに行くの?」
「はい、シオンに会いに行ってきます」
「そうなんだ…。じゃあタママも連れて行くの?」
「そうですね。テララの遊び相手になってくれるかもしれませんし」
「そっかあ、気を付けてね」
「はい」

 肝心のお土産の問いへの答えを挟み損ねたことに直ぐ気が付いたけれど、貰う側の自分から積極的にお土産の語を発するのは何だか気後れしてしまう。桃華も帰り道の話題の種に深く考えずに話を降ったのか、彼女の唇は既にこれから久しぶりに会いに行くシオンについて話題を移していた。地球竜の悶着の際に冬樹もシオンとは交流を持ったが、元々彼女は桃華と友人関係にあり、当然二人の関係は自分を挟まない場所で続いていたのだなと実感する。シオンの元に地球竜のテララが加わったことで彼女はタママを連れている桃華により一層の親しみを覚えているのかもしれない。
 女の子同士の友情に冬樹がどうこう言うつもりはないし、不満もない。ただ、小学校が一緒で現在部活が同じだからというだけで冬樹はどれだけ桃華との繋がりを維持していけるのかと不思議に思ってしまった。
 もしも日向家にケロロがいなかったら。もしも西澤家にタママがいなかったら。きっと今より細い繋がりしか自分たちには存在しなかったかもしれない。何せ、冬樹が経験する不可思議の大半はケロロたちによってもたらされている侵略目的の災難なのだから。
 中学生にもなると色々な場所で男女の区別が明確になってこうして一緒に帰るのにも理由がいる。周囲にすら当たり前になるほど共に居るのが自然と思わせる異性同士も稀には存在するのだろうが、幼馴染という冠すら抱かない自分たちにはまず間違いなく当てはまらない事象だろう。それでも、冬樹が一緒に帰ろうと声を掛ければ二つ返事で頷いてくれる桃華と、時には彼女から様々な誘いを掛けてくれることをもっと大切に自覚するべきなのかもしれない。冬樹は他者に対してあまり積極的でないことすら自覚して改善しなくても不自由なく生きているのだから。

「――西澤さん」
「はい、何ですか冬樹君」
「フランス、なるべく早く帰って来てね」
「……え?」

 桃華がいない時間を考えると、存外自分の日常は寂しくなってしまうだろうから。微笑を添えて送った言葉に、桃華は数秒の停止の後一気に頬を紅潮させて固まってしまった。首を傾げながら帰路を促す冬樹に、桃華は彼の言葉を深読みしすぎだと慌てて自制する。深読みしすぎて良かったのだと彼女が知るのは、冬樹がもう少し桃華のことを日常の中に組み込んでしまってからのことになるのかもしれない。




∴恋愛不適合者だけど問題ない

▼ルフィとナミ


 いつだったか、命と同等と言わんばかりに大切な麦わら帽子を容易く風に浚わせていることに呆れて帽子止めを付けてやった。帽子止めと言えば聞こえはいいが要するに紐をつけてやっただけだ。それでも爛々と瞳を輝かせて喜ぶルフィにナミも悪い気はしなかった。
 風で飛ばされなくなったのは良いとして、繰り返す戦闘の中でルフィから離れることない帽子の次なる悩みは傷み具合といった所。紐だって特別丈夫な材質ではないから無茶をすれば千切れる。帽子職人ではないし、係りではない。けれどルフィは大切な麦わら帽子に何かある度に慌てた様子で真っ先にナミの元にやって来るようになってしまった。嗜み程度の裁縫技量でどうやって麦わら帽子を補修できるというのか。そちらは素直に無理だと言い張って、自分で細心の注意を払って大切にするよう説いた。まあ細心の注意なんてルフィに出来るはずはないのだろうが、対象が麦わら帽子ならもしかしたら出来るかもしれないという淡い期待を込めている。その代わり、吹き飛び防止の紐だけは、ナミが毎回付け直してやっていた。大切なものだとわかっているから、特別上手くもない縫合中に傷付けてしまわないようにと慎重にやっているというのにナミの隣に陣取ったルフィは早く早くと急かすから思わず叱りつけることも少なくない。終わったらすぐに届けてやるから余所に行っていなさいと厄介払いをして、再び手元に集中すると、今度は一連のやり取りを眺めていたらしいロビンから「親子みたいなやり取りだったわね」と笑われてしまった。「そんなんじゃないわ」という反論に「それもそうね」とあっさり頷いて去っていく彼女は単に思ったことを率直に言葉に出してみただけのようだった。
 紐をつけ終えてルフィに麦わらを渡しに行くと何やらゾロと話している最中だったが遠慮するような話でもないだろうと割り込んだ。案の定、あっさりとルフィはナミが手にしている帽子に意識を奪われてはしゃぎだす。その様子を見ていたゾロがにやりと笑いながら「餌付けか」と呟いたから、ナミは胡乱気に「はあ?」と彼を睨む。

「餌付けって何よ。私は毎度自分の時間ルフィの為に浪費させられてるのよ?見返りがないじゃない」
「ふむ、じゃあ刷り込みだな」
「何言ってんの?」

 意味が通じないと眉を顰めるナミに一笑を残して、ゾロは踵を返して行ってしまった。ルフィもひとしきり喜びを表現し終えるとどこかへ駆けて行く。残されたナミは、ゾロの言った「刷り込み」の意味を考える。毎度ナミの元にだけ帽子を持ってやって来るルフィの状態を指しているならば、初めのきっかけとなった申し出に対して自分は下心を籠めていたことになる。それだけは断じて否と苦い顔をするナミに、酷い顔をしていると指摘してくれる人はいなかった。先程のロビンのからかいとその撤回の背景にもゾロが告げた言葉と似た意味が込められていたのなら、それは由々しき事態だと、ナミは浮かべる渋面の眉間による皺を深くした。



∴あの子は雛じゃない


▼球磨川とめだか




※戦挙編後・後継者編前



 生徒会の仕事は決してアイドルではない。生徒からの人気があるということは役員の魅力だけでは語られず、学園生活がそれなりにスムーズに行われなければそれは生徒会の怠慢が原因だと罵られることになるだろう。特に、生徒の自主性を重んじるが故必然的に生徒会の業務も多量となるこの学園に於いては。
 そんな中、副会長に就任した球磨川の働きっぷりは見事にそつないものだった。一カ月ばかりで失職したとはいえ中学時代には生徒会長を務めていたのだから当然といえばその通りかもしれないが。阿久根辺りは平然と球磨川から回ってくる書類を整理し、またその逆の作業をこなしているが、善吉や喜界島からすれば正直意外という感想を抱かずにはいられない。
 黒神めだかはその役職に求める条件を満たした人間を役員に選出している。めだかが副会長に求めたのは、寝首をかくとも構わない自身の対抗勢力となりうる人材。下手をすれば文句ばかりつけて業務を放棄する事態に陥りかねない条件ではあった。誰よりもはっきりと、真っ先に黒神めだかに勝ちたいと言いきった球磨川禊は、まさに彼女が求める人材そのものだった。
「『ねえめだかちゃん、善吉ちゃんや喜界島さんが僕が普通に仕事をしてるのを見て信じられないって顔ばかりするんだけど、そんなに変かな?お望みなら職務怠慢も厭わないよ?』」
「ふむ、善吉の場合は中学時代に一カ月足らずで職を辞した記憶があるからだろうな。余程の問題がなければそうはならない、つまり仕事が出来ないといった具合に思い込みがスライドしたのだろうな」
「『ええー?誰の所為で僕が学校を追い出されたのか忘れちゃったのかな?』」
「貴様の所為だろう」
「『ですよねー』」
「喜界島会計はいきなりクーデターを起こし滅茶苦茶なマニフェストを掲げて戦挙をけしかけてきた人間に真っ当な実務能力が備わっていたのが驚きなんだろう」
「『…めだかちゃん、それ嫌味?』」
「……何の話だ?」
 球磨川の言葉をとんだ言い掛かりだなと一笑に付して、めだかは手にしていた書類を手早く纏め次の書類に手を伸ばしている。勿論、嫌味なんて言ってのける程彼女が他人の卑屈な感情、劣等感を理解しそれを刺激出来るとは思っていない。単に突き出される事実が痛いから、球磨川は自分からそんなことはわかっているとアピールしたかっただけなのだ。そんな弱さを、やはりめだかは汲み取ってはくれないだろう。だって彼女は強いから。自分とは、正反対の存在。会長戦では、めだかは球磨川を決して弱くないと言いきったが球磨川本人はその言葉を受け入れることは出来ていない。どこまでも己が弱いと失望し這いつくばっているから、凛と立つ強靭なめだかを好きでいるのだ。同じではないことへの安堵。その温もりこそが過負荷の自分には相応しくないものだというのに。
「『この生徒会と来たら、日に日に僕に慣れてきちゃってて困ったもんだよ』」
「ふん、その割には随分嬉しそうな顔付きだな」
「『冗談!僕はまだ君の寝首をかく気満々だよ』」
「そうだな、それでいい」
 それが貴様の役目だと言いきっためだかに、球磨川はやれやれと肩を竦めた。厄介な会長率いる生徒会に取り込まれてしまったものだ。呆れながら、諦めている。災難に抗わないなんてとんでもなく過負荷だと笑い、球磨川も手近にあった書類を手に仕事を始める。
 好きな女の子のお誘いじゃなかったら、こんな業務三昧の生徒会間違っても入らないだろう。そう考えると自分も大概思春期だなとひとりおどけてみせる。だけどまあ、相手を油断させる為にも仕事は真面目にこなしておくが良いだろう。 青春なんて柄じゃないのだ。





∴知らない振りのつもりですけど?


▼シュウとハルカ





 贈られた薔薇はたった一輪で小さな花瓶を飾っている。きっと明日、ポケモンセンターを出発する時には処分しなければならなくなるだろう。一晩限りの花、一瞬の美と邂逅。それが、毎度偶然という名目の下でハルカと擦れ違ったシュウが彼女に寄越す贈り物だった。
 押し花でもない生花を道中延々と持ち歩く訳にも行かず。だが受け取りを断るには、ハルカはシュウを想い過ぎた。淡くとも儚くとも、ひとりで旅立つことを選んだ彼女を未だに見つけてくれる彼に、そしてその都度渡される一輪の薔薇に、自分が少しずつ期待を抱き始めていることも、ハルカにははっきりと自覚出来ている。
 ――棄てたくないのに…。
 思えども想えども届かない。花にも、彼にも。借り受けた花瓶を割ってしまわないようにと窓辺に置かれた花。ベッドに座り、手許にはモンスターボールが散らばっている。意図せず手にしていたそれから伝わってくる、ハルカを案じる気配。大丈夫だよと応じて、そっと瞼を下ろして横になる。きっと捨てるまで、自分は沢山の時間を葛藤と抵抗に費やすことになるだろう。だから、今夜は早く眠った方が良い。この薔薇を抱いて眠れば夢の中でもまたシュウに会えるのならば、もう少し抗いようもあるのだけれど。
「…大丈夫」
 声に出して、言い聞かせる。大丈夫、明日からまた歩く道の先できっとシュウにだって偶然出会える筈だから。そうして同じように薔薇を一輪差し出されることがあれば、やはりハルカはそれを受け取り一夜ばかりの飾りに胸を痛めるのだろう。シュウが、そんなハルカの葛藤に気付いていて、四六時中寄り添えないもどかしさと不安に揺れながら、彼女の想いを繋ぎ止めようと、偶然の再会の積み重ねに安堵しながら不確定な次回を祈るように花を贈り続けていることを知らぬまま。
 終着駅の定まらない、この旅か恋を終わらせない、その間は。大丈夫と幾度も根拠のない言葉を繰り返し、伝える勇気も湧かない好意を否定することもなくただ持て余しながらお互いを想い合うのだろう。次は、次こそはと果てない決意を胸に秘めながら。





∴飾らない言葉を下さい

▼伊作と数馬


「ごめん、誰?」

 そう悪戯に微笑みかけると目の前の後輩は、三反田数馬は泣きながら自分の名前を繰り返す。もう何度目かとも知れないやりとりを、自分と同じ同級生が間近で見ていたのならば悪趣味だと怒られていたことだろう。そう、自分の行いが反省すべきものであることを自覚しながらも善法寺伊作は数馬に対する悪戯をやめることが出来ないでいた。
 存在感が薄いことは、数馬が保健委員になって暫くしてから気付いた。当番の度、最初からいるというのにまだ来てないのかと首を傾げる他の委員に必死に挙手をしながら自分の存在を訴える下級生を、伊作は失礼ながら不憫にも思っていた。目につく場所を陣取るのが下手なのか、他者に印象を植え付けるのが下手なのかは知らないが。忍びとしてはその特性は活かすべきだとは思うのだが、何分卵としてあり大抵の人間関係の構築も行わなければならない学園内に於いては気の毒な性質だろう。それでも珍しく委員会外で数馬を見かけるときに彼が一人ぼっちで寂しそうにしているということは殆どなく、いつも同じ組の誰かだったり、迷子の捜索と称して数人で集って行動していることが常の様だから、きっと過度な心配を向ける必要はないということも直ぐに理解はした。したけれど。
 伊作にとって数馬は初めて出来た委員会の後輩で。可愛いだろうと問われれば間髪入れずに可愛いと頷くし、同じように自分の後輩が一番可愛いと思っているであろう同級生たちに「うちの後輩の方が絶対可愛い論」を唱えることを厭わないくらいには大切に思っているし、きちんと視界にも収めている。
 ただ如何せん名前を忘れられている以外での自己主張が少なすぎるというのが数馬の難点で。そんなだから忘れられるでしょうにと苦言を呈しても元々の気性がそうさせるのならば無理に積極的になれというのも酷だろう。ありのままでいられない、無理をしなければいられない委員会なんて絶対に居心地が良くない。それは伊作にも数馬にとっても悲しいことだろうから。

「善法寺伊作先輩、善法寺伊作先輩!」
「何だい、三反田数馬?」
「あああやっぱり覚えてるんじゃないですかあ、酷いです、酷いです忘れたふりをするなんて!」
「違うよ、今やっと思い出したんだよ。それまできれいさっぱり忘れていたんだ」
「どっちにしたって酷いです…」

 めそめそと涙を零し始めた数馬を抱き寄せて膝の上に乗せる。すっぽりと収まった数馬の頭を撫でながらごめんねと謝れば数馬は「もう絶対に忘れないで下さい」とぐずりながら答える。このやり取りだって、もう何回目だろうね?そんな意地悪は言わないけれど、だけど伊作は、今日の委員会を解散して次の委員会を招集した時、また同じことを数馬に言うに違いないのだ。愛が歪んでいるのかもしれない。だけど、伊作にだってそれなりの言い分はあるのだ。
 伊作以外が下級生という現在の保健委員の構成は、彼の次に上級生である数馬にどうやら責任感というものを抱かせてしまったらしく。出来るだけ先輩の手を煩わせないように、下級生の面倒を見てあげられるように。そんな風にして数馬は最近自立しようと心がけているのか何なのか、あまり以前ほど伊作に懐いてくれなくなってしまったのだ。勿論、甘えようとしないだけで尊敬の念は変わらず抱いているのだけれど、初めての後輩として三年分の愛情を惜しみなく注ぎ続けた伊作としては寂しいことこの上ない訳で。それでつい、意地悪な言動をしてしまうのであるが。やはり、同級生たちには耐え性がないとか、後輩の気遣いを気遣ってやれだとか言われてしまうのだろう。
 だけどやっぱり伊作は寂しいのだ。可愛い後輩が、同じように可愛い後輩に取られてしまった。可愛い同士が一緒にいれば確かに可愛さは倍増だけれど、伊作の懐に飛び込んでくる温くて小さい数馬はもう遠い。

「――数馬もちょっと前までは乱太郎たちみたいに可愛かったのにねえ…」
「ええ?今は可愛くないですか?」
「ううん、可愛い。数馬はいつだってちょー可愛い」
「…?大丈夫ですか伊作先輩?」
「もっと真剣に心配して」

 こんなじゃれ合いを、あと少しもう少しと引き伸ばしたいと願う寂しがり屋な上級生の気持ちなんて、きっと数馬は理解できないだろう。それでも構わないからもう少し自分に構われて、振り回されて、泣いてほしいだなんて。医務室に利用者が訪れなければ今日はこのままずっと数馬を抱えていられるなあなんて、伊作は初めて保健委員らしくない理由を胸に生徒たちの健康と安全を願った。




∴蝶も花も愛でずに摘んでばかりおりました


▼戴宗と翠蓮



 足手まといにならないようにと、この身に降った星の力を手繰ることを選んだ。もう守って貰うばかりの、口先だけの理想に夢を見る子どもには甘んじていたくなかったから。
 それでも、修行中という明確な身分ははっきりと翠蓮と戴宗を引き離してしまった。自分の星の力が戦闘に不向きであることは明らかで、それを差し引いた純粋な身体能力自体彼女はそれに向いていなかった。そんな彼女に掛かる慰めの言葉の大半は「適材適所」。彼は最前線を走るけれど、貴女は後ろからそれを支えられるようになれば良いんだよ、と。
 それは確かにそうだろう。それしかないだろうけれど。だけどそれではあの人は。いつか私を忘れてしまいやしないかと不安になるのだ。奔放に過去に縛られながら、自らの周囲を省みることをしない戴宗は。

「――戴宗さん」
「……ん?」
「花和尚さんが呼んでました。たぶん次の任務のことだと思います」
「あー、そう」
「…ちゃんと伝えましたからね!」

 梁山泊の頂、久しぶりに任務から帰ってきた戴宗の行動は専ら食事と睡眠に費やされ、起きていればそれはそれで騒動を起こす火種をまき散らしている。
 あれだけ梁山泊を得るに激戦を繰り広げたというのに戴宗は長期間この根城に留まろうとはしない。宋という腐った国を作り直すにはこれからこそが本番なのだと身を以て示しているかのような、そんな姿。与えられた部屋の窓縁に腰掛けている戴宗の手元には伏魔之剣。きっと今すぐにでも、彼はひらりと表に降りて新たな任務へと旅立ってしまえるのだろう。それは一つの彼らしさでもあった。身軽で短期で一本気。振り返ることもなく、彼は行き着く場所が例え死地だとしても赴くのだ。理想と復讐が混同し両立しうるこの悲しい世の中を断つ為に。

「…戴宗さん」
「クソ坊主んとこ行きゃーいんだろ?今から――」
「……?」
「…何泣いてんだ。悪いもんでも食ったか?」
「…泣いて…ああ、本当だ…気付きませんでした!」
「―――、」

 戴宗からの指摘で頬に手を当てた翠蓮は漸く自分の流す涙に気が付いた。無意識に近いそれはきっと、言葉にするよりも反射的な行動で、何故と問われても直ぐには答えられない。それよりも戴宗は早く花和尚の下へ行くべきだ。仮にも替天行道の大幹部、待たせすぎるのも失礼だろうから。

「戴宗さん、私の名前…覚えてますか?」
「――は?」
「戴宗さん、なんやかんや働かされてて忙しいし、物覚えは悪いしで、なんかその内私のこと忘れちゃうんじゃないかなあと思って」
「………」
「でも、そうなったらまた自己紹介すれば良いですよね!」

 いきなり何を言い出すのかと顔を顰めた戴宗への言い訳をするように翠蓮は笑みを浮かべ話題を打ち切った。そして戴宗が早く花和尚の元へいけるようにと道を譲る。翠蓮の相手をすることか、花和尚の元へ向かうことか、どちらにせよ面倒臭いという体を隠すことなく頭を掻きながら戴宗は彼女の方へ歩いてくる。正確には、彼女を通り過ぎた場所にある扉に向かって歩き出している。
 自分の言動の鬱陶しさに嫌気がさして俯いてしまった翠蓮の横を戴宗が通り抜けようとした瞬間、立ち止まる優しさなど持ち合わせていない彼は、それでも決して聞こえないとは言わせない声量で囁いた。
 ――仲間の顔と名前くらいちゃんと覚えてる。
 はっとした翠蓮が顔を上げ戴宗を目で追った時には、彼は扉の外へ出ていく所だった。慌てて名を呼んでも、やはり彼は止まってはくれない。それでも一瞬、視線を翠蓮に向けて動かされた唇は確かに彼女の名前を呼んでいた。その後、緩やかに弧を描いた戴宗の表情に浮かんでいたものが笑みであったことも、翠蓮は決して見逃しはしなかった。




∴あなたはわたしを忘れないで





- ナノ -