高校卒業と同時に一人暮らしを始めた緑川の部屋は、駅から少し離れた所にあって、築数十年経っているということもあって家賃はなかなかお手頃だった。それでいてトイレと風呂は別だし、四階建ての三階というなかなか好位置でもあったので、専門学生としてアルバイトに没頭する訳にもいかない緑川は現在の住まいに十分満足していた。家なんて、ベッドがあって風呂とトイレがあればいいと思う。極端だけれど、緑川はあまり自炊もしないし、自宅に引きこもっているタイプでもないので、広々とした収納スペースなどがあっても全く有効活用出来る気がしなかった。

「狭いのは良いけど、掃除はしてよ」

 緑川の部屋の玄関で、愛は決まってこの文句を口にする。ゴミを出さないとか、そういうあからさまな問題ではなく、一人暮らしだからだとか、直ぐ使うからと言って物や衣類が出しっぱなしになるという事態を、愛はだらしないと嘆いている。緑川はそういう部分は確かにずぼらで、上着やパーカー類なんかはベッドの上に放り投げていることが多かった。
 愛は、緑川の部屋にやって来る度に、何かと文句を言う。駅から遠いんじゃないかとか、自炊もしないと栄養過多で太るとか、以前のように毎日サッカーをして汗を流している訳じゃないのだからお菓子ばっかり食べるなだとか、休日にごろごろ昼過ぎまで寝るなとか、洗濯物は干したらちゃんとその日の内に取り込んで畳んで仕舞えとか、部屋全部じゃなくていいから水回りやトイレは小まめに掃除しろだとか、ゴミ出しの曜日指定はきちんと守れだとか。もちろん、いっぺんに全部言われたら、家庭的でない緑川はきっと目を回してしまうので、愛の忠言は一言、二言ずつ回数を重ねて伝えられる。
 まるで口煩い母親のようだが、そこは緑川なので。愛とお付き合いをしていて、尽きることも留まることもない愛情を中学時代からキープしている緑川なので。愛が小言の様に繰り返す言葉の下に、常にベースとなっている自分への愛情を見逃す程お馬鹿ではなかった。
 愛されているなあとだらしなく頬を緩ませるばかりで、怠惰な生活態度はいまいち修正されないけれど、愛想を尽かすことなく緑川の部屋を訪れ続ける愛だって、つまりはそういうことなのだ。愛情は、そう簡単には揺らがない。
 緑川が、専門からの友人にこの話をすると、最初は口煩い彼女ってどうなのという議論になって、緑川が愛のことを全く煩わしく思っていないことを理解すると、今度はそこまで言われて一向に生活態度を正さないお前ってどうなのという流れに落ち着く。愛と一対一で向き合っていると、単に愛がしっかりし過ぎているだけだと思ってしまうが、どうやら世間から見ると自分がだらしなさ過ぎるのだと、一人暮らし十二か月目にして緑川は漸く気が付いた。
 四年制大学に通っている愛は、同じ大学に進んだ由紀とルームシェアをしている。その為、家事の分担がしっかりとなされているので、生活サイクルもかなりしっかりしているのだ。同居人の彼女にも恋人がいるので、そちらがデートなどで家を空けるのに合わせて愛も緑川の部屋にやって来たりしているのだろう。勿論、相手の都合に合わせた片手間などではないが。
 誰かと一緒に暮らすということは、とても温かいことだ。ほんの一年前まで、緑川はお日さま園にいて、家族の様な安らぎと、友達の様な気軽さの中で楽しく過ごしていたのだから。いつか、園を出なければいけないことは誰もが知っていて、それは離れ離れになるということで、容易に顔を合わせることすら出来なくなることだとも知っている。
 今でこそ一人暮らしの気軽さに染まっている緑川だが、元来賑やかな環境を好む彼だったので、最初の一カ月は自分だけの部屋では当然起こる筈もない会話のなさに、寂しさばかりが募って、何度か愛に電話してしまったほどだ。そこで可笑しな意地を張ったりしない所が緑川の美点でもあるので、愛も大袈裟だと言いながら通話を切ることはなかった。その時ばかりは、自分も誰かと同居する形を取るべきだったかと早過ぎるような、遅過ぎるような後悔をした。

「リュウジが誰かと同居とかしてたら私、絶対こんなしょっちゅう会いに来ないよ」
「え!?なんで!」
「だって、何か落ち着かなくない?」
「そうなの?」
「そうなの!」
 しょっちゅうと称されたように、愛は緑川の部屋を訪れていた。休日だったので、駅まで彼女を迎えに行って、少しだけ遠回りをしてスーパーに寄って、愛が手料理を振る舞ってくれるというのでその材料を購入して帰宅した。当然、荷物は緑川が一人で持った。こういう些細な所で、格好付けたがる所があるので、愛は緑川が持つと言ったらもう遠慮せずにお願いするようにしている。非力扱いされていると頬を膨らまされても困るので。
 狭い玄関に二人同時に上がり込むことは出来ないので、荷物を持っていない身軽な愛から先に入って貰う。最初から緑川を訪れることだけが目的なので、お洒落なんて特別していなかった。少しだけくたびれた、履き馴らしたマロンブラウンのパンプスが乱雑に脱ぎ棄てられたのを後ろから見て、緑川はなんとなく嬉しくなる。ぼろい住まいの玄関に、愛しい彼女の靴が馴染んでいるように思えて、それが、嬉しい。
 にやけたいが、それを愛に見咎められて追及されても上手く説明しようがないので、何とか堪えて緑川も自室に入った。愛には、料理をしている間食事をするスペースを確保するようにと指示された。要するに、掃除してろということだ。

「…リュウジ、一人暮らし始めてそろそろ一年だよね?」
「うん、もうそんなになるのかー」
「ってことは、専門卒業するのも後一年ってことだよね」
「まあ、今のところ、進級出来るつもりでいるけど?」

 何故、愛が突然そんなことを確認して来るのか、緑川には測りかねた。だが取り敢えず、いつの間にか大分居心地良くなっていたこの部屋で過ごすのももう折り返し地点に近付いているのだと気付くと、時間が過ぎるのは本当に速いものだと実感する。

「卒業したら、リュウジは此処を出てまたどこかで一人暮らしでしょ?」
「うん、就職して、そうしたいなあと思ってる」
「……私、今由紀と住んでる所、二年契約なの」
「そうなんだ」
「由紀と熱波ね、契約切れたら同棲するかもしれないんだって」
「へえ!なんか凄いな」
「……ああもう!察しなさいよ!」

 恥ずかしさに耐えきれないという風に、声を荒げた愛に、緑川は反射的に肩をびくつかせるが、直ぐに愛の言葉と、それ以前の自分たちの会話を脳内でリピート再生する。ぐるぐると行き来する思考の先で、ピン、と愛の意とすることを察して、こういうことかと言葉にしようとして、無粋かと思い至って咄嗟に声が出て来なかった。
 そして、次いで発していたのは、自分でも驚くくらい落ち着いた声だった。

「いいの?」
「な…何が」
「同棲とかさ、すっごい憧れるよ。好きな人と四六時中一緒とか。まあ、俺たちの場合昔みたいに戻るっていうのもあるんだろうけどさ。だけどさ、だけど」
「だけど?」
「そこまで進んじゃったらさ、俺絶対引き返せないよ。その先を前提に愛ちゃんと付き合っていこうとするよ?」
「そ、その先って…」
「ん?結婚!」

 結婚の二文字に何を想像したのか、顔を真っ赤にした愛に、緑川はどうして照れているのだろうと首を傾げる。可愛いなあという惚気も多分に含まれているが、黙ってじっと愛の返答を待つ。やがて、照れたまま、意を決したようにこくんとはっきり頷いた彼女に、緑川も破顔して「一緒に暮らそうか」と言葉にした。「順番逆だよ」と照れ隠しに反論する愛の様子すら、今の緑川にはただ愛しかった。一年後には、当り前のように二人の靴が同じ玄関に馴染んで並んでいるのだと思うと、楽しみで仕方ない。そんな素敵な日がやって来るまでに、少しは愛の言っていた生活態度で過ごせるように練習しておこうと思う。
 一人暮らしを始めて一年経った日に、二人暮らしの約束をするなんて可笑しな話だ。そう言ちて、二人顔を見合わせて、笑った。


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ひとつの起点が弾く音
Title by『ダボスへ』


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