最近残業続きだった夏彦が、今日に限って絶対定時に上がってみせるからと必死な声で電話越しに訴えてくる。わかった、わかったよ。まるで背中をさするような穏やかな声音で何度目か繰り返した時、夏彦は誰かに呼ばれたのか申し訳なさそうに謝りながら通話を切った。
 子機を置けば、リビングの方から聞き慣れたソプラノが由紀をしきりに呼び始めたので、彼女は冷蔵庫からお土産で貰ったチョコレートの箱を取り出すと、パタパタとスリッパを慣らしながらリビングへ戻った。

「夏彦?」
「うん。今日は絶対早く帰るから、だって」
「ふーん」
「でも忙しいみたいだったけど」
「夏彦が帰るって言ったんだから、帰ってくるわよ」

 由紀が夏彦を案じるように声量を下げると、彼女を待っていた杏は気にする必要は全くないとばっさり切った。
チョコレートの箱を受け取ると、駅前の洋菓子屋の人気商品だなんだと喋り始める。由紀は大抵、まるで少女のようにせわしなく口を動かす杏の話にうんうんと頷く。こんな関係が、習慣のようになっていることに、由紀は割と満足している。
 夏彦と由紀よりもだいぶ早くに結婚した杏は、子どもを保育園へ迎えに行く途中にある二人の家へ、自宅を早めに出て頻繁に顔を出すようになっていた。
 昔は、夏彦と杏の間に交流はあったが、由紀と杏には特別親しくなる機会などなかった。それが、結婚してからは夏彦よりも由紀の方が杏とお茶仲間として顔を付き合わせているのだから不思議なものだ。

「もう一年?」
「そう。なんかあっという間だった」
「子どもが出来たらもっと早いわよ」

 未だ新婚のような初々しさを残す由紀に、子どもの話題をちらつかせると決まって頬を薄く紅潮させるのを、杏は可愛らしいと思いながら毎度見つめる。悪友に近い夏彦の選んだ女だから初めはもっと賑やかなタイプかと思えば実際こんな大人しかったのだから人の好みは分からない。昔の夏彦を思い出して、またその隣にいる現在の自分の旦那の姿を思い浮かべる。うん、人の好みは分からない。
 結婚一周年の記念日を迎える夫婦の部屋に居座っているなんて字面だけなぞればだいぶ野暮だが仕方ない。先日自分たちの店を訪ねてきた夏彦が最近残業ばかりでなかなか早くに帰れないとぼやいていたのだ。それでなんとなく、大丈夫かと気を揉んで、いつも通りの口実を理由に部屋に上がり込んだのだ。どうやら、夏彦は仕事にかまけて記念日を忘れるという失敗は犯さなかったらしい。
 杏がテーブルに広げられたらチョコを咀嚼している間に、由紀はまた立ち上がり今度は杏が持ってきた花を花瓶に活けて来て、テーブルの端に置いた。

「この花、知ってる?」
「……山梔子、だっけ?」
「正解!じゃあ山梔子の花言葉は知ってる?」
「…わからない、」

 素直に首を横に振ると、杏は急に優しく微笑んで、「夏彦に聞きなさい」と、紅茶の注がれたカップに口を着け、そのままこの話題はもうお終いだというように口を閉ざした。由紀も、夏彦が知っているのなら夜にでも聞こうと、特に追及もしない。
 それからは、日常の他愛ない話をした。主婦だなあと実感せずにはいられないような、そんな会話。
 そろそろ時間だと杏が腰を上げる頃には、由紀もうっかり時間を過ぎるのを忘れていたのだと慌てる程時計の針は進んでいた。玄関まで見送ると、靴を履き終えドアノブに手を掛けたまま杏が振り返る。

「さっきの花言葉なんだけどね」
「うん?」
「私と晴矢からの、お節介だと思ってちょうだい」
「お節介?」
「んー、希望の方が近いかな。そうだったら良いな的な。まあそうだって知ってるんだけど」
「どういうこと?」
「あたしも晴矢も、ずっと夏彦の片思いを応援してたってこと」

 にかっと少女の頃のように笑った杏は、何一つ理解の追い付かない由紀を残して扉の向こうへと姿を消した。呆然とそれを見送った。
 リビングに戻ると、テーブルの上の山梔子が意味深に存在を主張していた。夏彦に聞けば分かると言った花言葉。去り際に随分と思わせぶりなことをしてくれたものだ。
 リビングの隅に置いてあるノートパソコンをちらりと視界の隅に捉え、どうしようかと思案する。そこまで必死になることもないのだろう。疑問の答えは夜になれば解ることは既に確定しているのだから。それに、晴矢と杏、夏彦が共通して理解していることを、自分だけが知らないというのは寂しい反面探りを入れているようで後ろめたい。
 悶々としていると、テーブルの上、花瓶の傍にある携帯がチカチカと点滅していた。メールだと手を伸ばし確認すると、夏彦からで、7時過ぎには帰るとのことだった。ならばそれに合わせて夕食を準備しよう。今日は記念日だから、豪華というよりも二人の好物を取り揃える予定だ。
 了解の返事を打ち終えて、送信する。そのまま携帯を閉じようとして、そういえば携帯でもネットは繋がるし花名まで分かっているのだから花言葉の検索くらい簡単に出来るのだと気付く。
 散々悩んだけれど、だって気になるし、夕飯の準備にはまだ早いし。
 カチカチと手早く文字を入力してボタンを押す。いくつか引っ掛かった項目の二番目、入力した山梔子、花言葉のどちらも語句も含まれているページを選択する。

「あ、これかな…?」

 スクロールを下げて、お目当ての花言葉を見つける。部屋には由紀一人だから、答えを見つけてもリアクションを取ったりはしない。ただ、つい先程の杏の言葉の意味が理解できてしまって、そこから派生して彼女に届いた真実が温かくてどうしようもなく嬉しかった。部屋に差し込む西日が優しいなんて感じたのは初めてのことだ。



「ただいま、」
「おかえりなさい」

 連絡通りの時間に帰宅した夏彦を玄関で出迎える。無理はして欲しくなかったが、やはり折角の記念日なのだから一緒に過ごせるのは素直に嬉しかった。
 労いの言葉を掛けながらリビングに移動すると、夏彦は直ぐにテーブルの上に飾られた山梔子の存在に気付いたようだった。

「晴矢?」
「杏の方だよ」
「それもそうか、」
「…ねえ、夏彦君」

 じっと彼の目を見る。昔は恥ずかしくて、顔を見ることさえ出来なかった。会話をすることも、サッカーを離れてしまえば夏彦と上手く付き合うなんて夢のように思えた。その所為か、いつの間にか随分と周囲の人間にも心配を掛けていたらしい。その筆頭が、晴矢と杏だった。
 お互い結婚した今でも、今日のように気に掛けてくれる友人がいる。だから、その気持ちに感謝して報いる意味でも、今更だとしてもはっきりと自分の気持ちを夏彦に言葉にして届けなくてはいけないと思った。
 夏彦は、呼び掛けたまま途切れた由紀の言葉の続きを待っている。

「"私はとても幸せです"」
「…!」
「山梔子の花言葉。杏と晴矢君の願い事だって」
「うわ、お節介…」
「私の現在だよ夏彦君」
「由紀?」
「夏彦君とこうして結婚して、私はとても幸せです」
「…ありがとう」
「……、照れるね」

 向かい合いながらはにかむ由紀に、夏彦も自然と笑みが浮かぶのが自分でも分かる。
 相変わらず兄貴気質で意外に面倒見が良い晴矢とその妻になった杏の、予想外の行動を、羞恥でついお節介と称したが今では礼を述べたくて仕方ない。
 自分と結婚して幸せかなんて、夏彦の性格上普段はそう簡単には聞けないことだ。それを、あの照れ屋な彼女から言って貰えるとは思いもしなかった。
 特別な日だけれど、これから何十年も同じ日を積み重ねて通り過ぎて行きたいから、大袈裟に祝うことはしないつもりだった。それでも夏彦は、この一周年目だけは朧気になることもなく忘れずにいようと思う。幸せだと、ずっと由紀を想い続けて結ばれた夏彦にはこの上なく喜ばしい言葉。この先、きっと何度も由紀の声でこの言葉を繰り返すのだ。そしてその記憶の傍らには、山梔子の花が揺れていることだろう。


―――――――――――

これ以上に幸福はないっていうくらい
Title by『Largo』

一周年企画ログ







- ナノ -