これだけ世間が事前に騒ぎ回っているのだ。バレンタインのことを意識しない人間はいないだろう。
勿論、円堂だってバレンタインが近付いていたことは知っていた。ただ毎年母親くらいしか自分にはチョコをくれる相手がいなかったこともあっていまいち身近な行事として捉えることが出来なかった。
バレンタイン当日、クラスに行けば妙に落ち着かない様子だったり、満足げだったり、はたまた朝から机につっぷして動き出さないような男子とは裏腹に女子たちは皆楽しそうだった。
席に向かえば豪炎寺は既に自分の席に着いておりどこか疲れた様子であった。

「おはよう豪炎寺」
「ああ、おはよう」
「なあ、なんか疲れてないか」

豪炎寺は円堂の言葉に、大きな溜め息と、ちょっとな、とだけ返した。円堂もふーん、とだけ返して席に着く。すると近くにいた女子から何やらクッキーを貰った。取り敢えず礼を述べる。その女子はたった今教室に入ってきた女子に近付くと同じようにクッキーを渡していた。
そこで円堂は漸くバレンタインは今日だったのかと思い出した。なる程、これで豪炎寺のくたびれた様子にも説明がつく。朝から女子にモテモテだったに違いない。恐らく、風丸も大変な思いをしているのだろう。他人事のように大変だなあ、と考えながら窓の外を眺める。冬の空は晴天で雲一つない。見事なサッカー日和だ。円堂には、それだけで今日一日は素敵な日になるに違いないと思えた。

「おはよう、円堂君」
「おう、おはよう秋!」

いつもより少し遅めに入ってきた秋といつものように挨拶を交わす。
すぐ近くの席に荷物を置く秋に、円堂は一瞬いつもの秋とどこか違和感を覚えたのだが、本当にそれは一瞬のことだった為その感覚は直ぐに円堂の中から霧散してしまった。

「今日はバレンタインでしょう?」
「ああ、豪炎寺とか大変そうだ」
「マネージャーみんなでサッカー部みんなにチョコを作ったから、部活の時間に配るね」
「そうか、ありがとな!」

秋がいつもより教室に来るのが遅くなったのはそのチョコを先に部室に置きに行っていたらしい。
マネージャー達からのチョコを、きっと部員のみんなが喜ぶだろう。勿論、円堂も嬉しく思う。友愛にしか目が行かないから、こうした満遍なく行き渡る厚意は素直に嬉しい。

恐らく、この陽気なテンションは今日一日続くのだろう。昼休みになり、弁当を広げながら円堂は考える。ご飯と一緒にチョコを食べるクラスメイトの女子を眺めながら、その大半が平素なら痩せたいだのダイエットしなきゃだの言っていたのに、と思うが、そこはバレンタイン恐るべし、と言葉を濁しておく。円堂だって浮かれた女子たちのおこぼれに与って昼食前の空腹を乗り切ったのだから。
ぐるっとクラス中を見回すと、ふと秋の姿が目に入る。仲の良い女子と話しながら頬を赤く染める彼女はどうやら本命チョコを渡さないのかとかからかい半分で問い詰められている。

秋にもチョコあげたい相手がいるんだなー…。

流石の円堂も、自分の部のマネージャーがモテるのは知っている。だけど秋に好きな人がいるとは知らなかった。それもある意味当然で円堂は恋愛話にはとことん興味がなかった。だから誰が誰を好きかなんて全く知らず、また誰かが自分を恋愛的な意味で好いているなんて発想は全く湧いてこないのだ。
秋が好いている相手がどこかにいる。それを何となく理解しても円堂に別段変化はない。大事な仲間だから、上手くいったら良いな、ととりあえず願っておく。

放課後、部室に向かえば春奈からチョコの存在を知らされていた一年生達が既にチョコ欲しさにはしゃいでいた。円堂と一緒に部室へやって来た秋が部活が終わってからね、と優しく告げればやる気満々といった風に準備運動をしてくると全員外に駆けていく。

「バレンタインって凄いんだな」
「男女関係なく騒いじゃうよね」
「そういえば秋、本命チョコ渡しに行かなくていいのか?」
「…え!?」

何を言っているのか。何故知っているのか。驚くということは後者なのだ。円堂は秋の真面目さを知っている。秋は午後に誰かにチョコらしきものを渡していなかった。ならば部活が始まる前に渡しに行かなくてはなるまい。私的な理由で部活を抜けるなど、秋はきっとしないのだから。

「え…円堂君は、チョコ…平気だよね?」
「ん?ああ、普通に食べるぞ?」
「じゃあ…あの、これ」

差し出されたのは淡い橙色の袋。シンプルなそれが恐らくチョコであることは今の会話の流れからなんとなく分かる。
疑問は、何故今これが自分に渡されたのか。チョコは部活が終わってからのはず。今、自分は秋に本命チョコを渡さなくて良いのかと尋ねた。そしたらこの袋を渡された。それは、つまり。

「あ、あのほら、円堂君にはいつもお世話になってるし!キャプテンだし!お礼って言うのかな!」
「ああ!そっか、うんそうだな!ありがとな!」

一瞬、妙な考えが頭をよぎりかけたのを必死で留める。これが秋の本命チョコだなんて、そんな訳ないのだ。
そう内心で言い訳のように言葉を重ねながら、円堂は少し動揺している。部室で二人、お互い顔を赤くして俯く姿は端から見れば不思議に映るに違いない。

「え…と、準備してくるね!」
「ああ、頼むな!」

慌てて部室を駆け出て行く秋を見送り、一瞬香った甘い香りに、朝感じた違和感が顔を出す。成る程これは秋の香りだったらしい。ただいつもの秋は石鹸みたいな、お母さんみたいな優しい匂いだから違和感を覚えたのだろう。
何だか自分は変態みたいなことを考えていないか。頭を振ってもはや邪念並みの思考を切り換える。
義理でもお礼でも、秋に貰ったチョコだから大事に食べようと思う。ホワイトデーのお礼も忘れないようにしなくてはいけない。だけど絶対からかわれるから、母親や風丸たちにはばれないようにしなければなるまい。
鞄の中、他の荷物に潰されないよう注意してチョコをしまう。自分も早くグラウンドに行かなくてはならない。

「バレンタインって大変だな…」

だけど嫌いじゃない。そう一人ごちて、円堂も漸く部室を後にした。








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