夏未が家庭的な面に於いて致命的なまでに壊滅的であるということはある意味周知の事実であった。
だから、バレンタインが近付くにつれ周囲の女子達が何を作るだの盛り上がる中夏未のテンションは下がる一方であった。
ただ、唯一の救いは同じサッカー部のマネージャーである秋と春奈の存在であった。お菓子作りの経験など皆無な夏未に、一緒に作ると理由付けまでして手伝ってくれたのだ。勿論市販のチョコを溶かして固めた上に少量のデコレーションを施す程度ではあったが、夏未にとっては緊張仕切りだったのである。
しかしこの先は、つまり完成したチョコを意中の相手に渡すと云う最終工程。こればかりは誰の手も借りることは出来ない。たとえその相手が豪炎寺で、これまで数多くの女子の好意をすげなく断り続けている人物であってもだ。
秋の「夏未さんなら大丈夫」だとか、春奈の「応援してます!」の声はどれも夏未を奮わせはすれども安心はさせてくれないのだ。
そして安心などしなくて正解だったのだと、バレンタイン当日の朝に夏未は既に確信しているのだからやるせない。
朝練が終わった後にでも、気楽に話し掛けて渡せるだろうなどと見込みが甘かった。サッカー部の部室近辺は朝の方が人通りが少ない為に好ましかったのだが仕方ない。朝礼があることを失念していた夏未のミスでもあったのだから。
だが朝礼を終えて教室に足を踏み入れた途端夏未は朝礼に遅刻してでも朝練後に豪炎寺を引き留めてチョコを渡してしまえばよかったと後悔し始めた。
豪炎寺はモテるのだ。それはもうクラス、或いは学校中の女子生徒が豪炎寺にチョコを渡そうとしている気配を漂わせるまでに。勿論、全てが全て本命チョコと云う訳ではない。周りのテンションに流されて噂のサッカー部のエースストライカーにチョコをあげてみたいと思っている程度の女子の方が圧倒的に多いのだろう。だが豪炎寺に本命チョコをあげたいと思っている夏未にとっては義理であろうと本命であろうとやっかいな障害でライバルであることに違いない。
案の定、休み時間に豪炎寺のクラスを覗きこんでも、彼は机に群がる女子の所為でみえないか、或いは逃げ回っているのか留守にしていた。毎時間同じ様に訪れる夏未に気付いた秋は気を利かせて、豪炎寺が戻ったら自分が呼んでいたと伝えておこうかと提案したが、夏未はこれをやんわり断った。他者を挟めば、豪炎寺に重要な用件かと誤解を与えそうで嫌だった。夏未にとっては当然重要な用件だが、豪炎寺にとっては違う。その現実を忘れて浮かれたりはしたくなかった。
こうなれば放課後、部活前か後かに渡すしかない。そう仕切り直していれば突然今日中に理事長の代わりに仕上げて欲しいと書類を投げて寄越された。しかもかなりの量があるのだから思わず顔を顰めてしまう。

「…厄日だわ」

一人きりの理事長室で、いくらせっせと手を動かせども仕事は終わらない。窓の外では既に日が暮れかけている。この分では今日はもう部活に顔を出せそうにない。当然連絡は入れているが問題はそこではない。
机の上に置いた小さな紙袋を眺めながら目を伏せる。やはり今年は無理だろうか。初恋を経て新たに芽吹いた気持ちは結局意中の人には届けられそうにない。
夏未が仕事を終えて時計を見れば時刻は既に18時30分を指していた。帰り支度を済まし、廊下に出れば人気はなく明かりも付いていない。不気味だとか怯えたりはしないがやはり寂しい。自分の不器用さ故に多大な時間を準備に費やした。その結果がこれであるのだから落胆しない方が難しい。

「雷門、」
「え?」

静まり返っていた廊下に、夏未を呼ぶ声が響く。驚きと共に振り返ればそこに立っていたのは予想と違わず豪炎寺本人であった。

「何してるの豪炎寺君!?」
「待ってた」
「何をよ?」
「雷門を」
「私?」

それならば理事長室を訪ねてくれれば良かったのに。日の落ちた、人気もない真冬の廊下は寒い。部活終わりには高かった体温も今では冷えきってしまっているのだろう。マフラーの上に見える豪炎寺の耳は赤くなっていた。

「音無が、雷門が俺に渡したい物があるらしいから貰ってこいと言っていた」
「おっ音無さんが?」
「だから待ってた」
「別に明日来れば良かったじゃない。擦れ違ってたらどうするのよ」

春奈の好意は嬉しいが、これで豪炎寺が体調を崩したりしては意味がない。自分は確かに豪炎寺が好きでチョコも渡したいと思っている。だがそれ以前に自分がサッカー部のマネージャーであるとしっかり自覚している。だからこそ嬉しさと同時に複雑さも生まれてしまう。

「…今日じゃないとダメな物なんだろう?」
「―…っ!貴方、全部分かってるでしょう!?」
「さあ?」

惚けてみせる豪炎寺の顔は暗がりでも分かるくらい楽しそうだ。だが羞恥心やら焦りやらで軽くパニックに陥りかけている夏未に、遊ばれている等と誤解を与えるような表情でもないから。夏未も腹を括るように息を吐いて、手にしていた紙袋を豪炎寺に向かって突き出した。

「これを受け取るってどういうことか、貴方ちゃんと分かっていて?」
「ああ」
「…本当に?」
「夏未が俺の彼女になる」
「は!?」

木霊する声に驚いてとっさに口を噤むがもう遅い。豪炎寺の言葉は勿論、初めて呼ばれた名前も全てが唐突で、本来想いを伝える側だった夏未一人が焦ってしまう。余裕に笑う豪炎寺に態度が悔しくて、夏未は少し恥ずかしさを誤魔化すように意地を張るのだ。

「やっぱりあげない」
「どうして?」
「だって豪炎寺君はもう沢山チョコ貰ったでしょう」
「いや、今年はまだ一つも貰ってないぞ」
「え?」
「それが気になって仕方なかったからな」

そう言って、夏未の手にした紙袋を指差す豪炎寺は確かに格好良い。だけどこうもストレートにこられるとやはり夏未はたじろぐ他ないのだ。驚きと恥じらいと喜びで固まった夏未の手から、豪炎寺が最後の一歩を踏み出してチョコを浚うまで、とても動き出せそうにない。
二人ぼっちの廊下に流れ始めた空気は、どこまでも甘かった。







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