可愛い子になりたい。それはいつの時代も、恋する女の子が焦がれて已まない衝動なのです。
朝起きて、洗面所に向かう。寝癖が付いていなかった朝は鏡の前でガッツポーズ。逆に左右反対にとび跳ねたりしていた日には朝一で顔を顰めてしまうのです。顔を洗ったら鏡に向かって笑顔の練習。今日も私は大丈夫。自分で自分に魔法をかけるの。あの人の前でもこんな風に笑っていたい。そんな願いは食卓のホットミルクの湯気に溶けて消える。

「おはようございます!風丸先輩!」
「ああ、おはよう、音無」

通学路。自分で決めた定刻通りに家を出れば、いつも途中で見つかるあの人の背中。サッカー部に朝練はあるけれど、本当はこんな早くに学校に向かう必要は、マネージャーの私には無いんです。でも、風丸先輩は自主練と称して一人で他の部員よりも早めに学校に向って走り込みなどを行っている。それを知ったその日から。彼に恋する私は黙って見ていることすらしないなんて出来ません。だって私はマネージャーですから!…失礼、訂正しましょう。だって私は恋する乙女ですから!

「今朝は少し冷えますねえ」
「そうだな、でも昼ごろには暖かくなるって天気予報で言ってたな」

こんな他愛のない会話を交わしながら、通学路を歩く。登校時間よりもまだ幾分早いこの時間にこの道を歩いているのは私と風丸先輩だけで、まるで世界に二人きりになったみたいだった。こんな甘ったるい恋愛小説でも最近では滅多に見かけなくなった使い古された言葉を、心の中で呟いてみる。恋を形容するのは陳腐な言葉で充分だと思う。煌びやかな言葉で飾る必要なんて何所にもないのだと、私は信じている。
だって不思議なものでしょう。最初、風丸先輩は陸上部で私は新聞部。二人の間に繋がりなんて全くなかったのに、今ではこうして隣を歩いて話して笑い合える。これってきっと運命なんです!ほら、すごく安っぽい言葉でしょう。だけどこれが最上級の表現だと、私は決して疑っていないのだから。
だから私は毎朝クラスの女の子の平均起床時間より一時間以上も早く起きて身だしなみを整える。スカートの丈は松野先輩や半田先輩から仕入れた情報を元に割り出した、短すぎず長すぎず、そんな長さで。勿論プリーツに皺が着いていたりしないか毎晩寝る前にハンガーに掛った制服をチェックしている。目立ちすぎない色のリップクリームを選んで付けてみたり、運動部のマネージャーだから、シルバーアクセサリーでは無くミサンガを手首に付けてみたり。全部全部、いつか風丸先輩に「可愛い」って言って貰える日を夢見る女の子の弛まぬ努力の賜物なのです。

「音無、手、赤いな」
「あ、手袋するにはまだ早いかな、と思ったんですけど、今朝は本当に冷たいですね」

指が上手く動かせません、と片腕を前に突き出して、掌を閉じたり開いたり。冷気で悴んだ指は脳神経の命令とは裏腹に緩慢な動きしか出来ない。なんだか面白くなってしきりに繰り返していると、不意に、風丸先輩が私の冷えた指先を掌ごと包んで引いた。つまり、手を、握られている。

「……風丸先輩?」
「俺さっきまでポケットに手突っ込んでたから、あったかいだろ」

そう得意げに言う風丸先輩の手は、確かに温かい。そして彼の頬はほんのり赤く染まっていて、彼が吐く白い息と相まって、男の人に向ける言葉ではないけれど、綺麗だなあ、と思った。

「このまま学校行こうか」
「えっ、このままですか?」
「音無が嫌なら、やめるけど」
「嫌じゃないです!!」

予想以上に大きな声は、未だ静かな住宅街の道に響いて消える。決まり悪くなって黙ってしまう私に、風丸先輩は「じゃ、行こう」とだけ言って歩き出す。手は繋いだまま。手を引かれる形になり歩き出す私は、風丸先輩の先程見た頬よりもはっきりと赤く染まった耳を見つめながら考える。これは、自惚れてしまってもいいだろうか、と。風丸先輩は、なんとも思っていない女子にこんなことする人では無いと、勝手に思っているから。だから期待してしまおう。
握られた手は、もう恥ずかしさとか緊張とか嬉しさでとっくに熱いくらいに体温を急上昇させているのだけれど、学校に着くまでは、黙ってこのままでいよう。ほんの少し、彼が握る手の指先に、そっと力を込めて握り返してみた。学校まで、あと少し。
おしゃれと称して、今は制服の長袖の下に隠れている、数日毎に付け替えているミサンガの色が、今日は風丸先輩の髪の色と同じ水色だということに、彼は全く気付いていないのだろうけれど。だけど私のこの恋心に、ほんの少しでも気付いてくれているのならいいなあ、と思った。






- ナノ -