追いかけるには、多分まだ覚悟が足りない。 運動靴を体育の時にしか履かなくなって、固いローファーに慣れ始めた頃。私はたった一つの恋をしました。 高校生になって初めての冬。中学生の頃よりも少しだけ増えた通学時間の事を考えて、今から憂鬱な気持ちになる。 窓の向こうに見える空は冬特有のうす暗い曇天で覆われている。きっと雪が降るのだろう。 教室は沢山の人間と暖房器具で既に十分暖かい。それでも廊下に出ればまるで別次元かの様に冷え冷えとした空間が広がっている。 まだ昼を少し過ぎたばかりのこの時間。明かりの灯されていない廊下の薄暗さに一人身震いする。教室に蔓延する賑やかな会話声なんてまるで聞こえない。そんな静寂を湛えた廊下で、窓ガラスに向かって一人指で文字を書く。移動教室のクラスは不思議な程少ないらしい。先週のこの時間には、全く気付かなかった。 「穂波なにしてんの?」 「!」 突然の声の乱入に、この廊下に在った沈黙がぱちんと弾けて消えた。驚きで狂った手元は先程書いたばかりの文字を見事にかき消していた。そしてそれは、都合の良い結果に違いない。 「杉山くん…」 「珍しいな。一人?」 「まるちゃん、風邪で休みなの」 「うわ、そっちのが珍しいな!」 杉山くんが、私に話しかけてくるのは珍しい。普段、よく話す方ではあるけれど、大体杉山くんがまるちゃんに話し掛けるパターンが多かった。それは、決して杉山くんがまるちゃんに好意を抱いているとかではなく。杉山くんの大親友の大野くんがまるちゃんに好意を抱いているから。 目に見て明らかな大野くんの想いは、恐らく彼が言葉にしない限り一生まるちゃんには届かないの。まるちゃんは沢山の友達がいるけれど。その中で特別と云う感情を向けて貰えるのは、きっとほんの一握り。 そんな大野くんの恋を、気付けば私は杉山くんと二人並んで眺めて応援していた。弾む会話は純粋に楽しかった。もしかしたら、杉山くんにとっては、親友の恋の手伝いの片手間だったのかもしれないけれど。 いつしか、種が芽を出し花を咲かせるように。そんな風に、至極当然のように私は杉山くんのことを好きになっていた。 届く届かないの話など、する気にはならなかった。 ただどうしようもなく、寂しかった。まるちゃんが大野くんに想われて、もしも彼の手を取ってしまったら。もう杉山くんは、私に話し掛けてくれたりはしなくなるんだろう。 恋の終わりに涙は浮かばない。しかし途中で断ち切られるのは辛い。そんな淡く深い想いだった。 「雪が降りそうだね」 「そうだな」 「大野くんは、まるちゃんのお見舞いとか、行かないのかな」 「無理だろ、一人じゃ」 「そっか」 何を話題にして良いのか、まるでわからない。大野くんの恋をダシにするような形になってしまって、何だか申し訳ない。 杉山くんは、此処から立ち去らない。それが私の緊張を煽って、目線を窓の外に向けさせる。 ふと、窓に映る杉山くんを見遣れば同じように私を見ていたらしく、視線がぶつかる。 気恥ずかしさで直ぐに逸らした視線。窓に添えたままの指先はもう窓に張り付く結露の水分で冷やされ感覚が殆ど無い。頬にばかり集まるこの熱を、分けてやりたいくらいだった。 「なあ穂波、」 「……なに?」 「今日、さくらがいないんならさ、…あの、」 「…杉山くん?」 「一緒に帰らないか!?」 予想外の誘惑は、反射的に私の身体を杉山くんへ向けさせた。そして漸く気付く。この薄暗い廊下の中では間違えない。杉山くんの顔はきっと私と同じくらいに赤く染まっている。 「でも、部活は?」 「今日は休み」 「…、じゃあ、あの…宜しくお願いします…?」 可笑しな日本語のチョイスに、脳内で自分を繰り返し叱責する。 だけど杉山くんは優しく笑って宜しくな、なんて返してくれる。 小さな優しさが積み重なって、私の中で新たな熱を生む。悴んでいた指先で握りしめたスカートに、その熱とむず痒さを逃がす。 「じゃあ、放課後迎えに行くから」 「うん、待ってる」 何だか、恋人みたい。贅沢な想像に首を振る。杉山くんはそのまま自分のクラスに戻る。そういえば、杉山くんは一体どうして廊下に出てきたのだろう。 疑問と同時に、自分が文字をなぞっていた窓ガラスに目を遣る。其処は既に新しい冷気によってその表面を曇らせていた。私の書いていた文字の痕跡は、もう無かった。 「好きです」 窓になぞった言葉をポツリ呟く。再び静寂を取り戻した廊下に響かぬよう、注意しながら。 曇った窓ガラスの向こう。視線を凝らせば既に雪が降り始めていた。その事実を知覚しただけでより一層寒さが増した気がする。 もう教室に戻ろう。踵を返せば、先程杉山くんが戻った隣の教室から、大野くんが叫ぶ声が聞こえた。多分、まるちゃんの風邪のことを聞いたのだろう。 放課後、どんな話をしよう。相談出来るまるちゃんはいないけれど。明日、元気になったまるちゃんに今日の出来事を報告したら、なんて言われるんだろう。 良かったねって、言ってくれたら嬉しい。 吐く息は白いまま。だけど不思議と、寒くは無かった。 ←→ |