パパの仕事で、アメリカに行くことになった。でも、一緒に着いて行くと決めたのは私自身だった。パパもママも私には甘いから、きっと私が日本に残りたいと言いさえすればそれを許してくれたに違いない。日本とアメリカ。幼い子供がそう生活拠点を移すにはその距離はあまりに長すぎるものだから。
けれど、光子郎君はそうは考えなかったらしい。ある秋の放課後、パパが仕事でアメリカに転勤になったから引っ越すかも、と告げた言葉に彼は一言そうなんですか、とだけ言葉を残した。そのリアクションが気に入らなかった私は、すぐ光子郎君から逃げるように走って帰った。デジタルワールドでもこんなことがあった。だからあの日と同じように帰ってからずっと泣いていた。当然光子郎君は来てくれなかった。
次の日、光子郎君は昨日の私の態度なんて気にしていないようだった。いつ引っ越すんですか、と尋ねられたから早くて来年の春だと答えておいた。随分情けない声を出したように思う。光子郎君は言う。これからどんどん世界は繋がっていくのだからそう寂しがる必要はないのだと。グローバル化って言うらしい。メールも電話も、きっと今より国境を越えて行き来しやすくなるし、そして何より私はアメリカに永住する訳ではないのだから、と。そうなのかもしれない。けれど私は知っている。光子郎君が自分からメールしたり、電話をしたりしてくれることなんて、きっと無いでしょう。いつだって彼に言葉や声の見返りを求めるのは私の我儘なのだから。
どんなに世界がグローバル化と言って一つになろうとしたって、子供な私の言葉は電子レベルに分解されてケーブルの中を行き来したりはしない。私の想いはアメリカから国境と海を越えて貴方に届かない。そんな簡単なことがどうして光子郎君には伝わらないのかが、私には分からない。私と光子郎君の間には国境以上の何が在るって言うんだろう。

結局、私がアメリカに行く春はあっさりとやって来た。その日、空港までのタクシーを呼んで荷物を積んでいる間、自宅前まで光子郎君や太一さん達が見送りに来てくれた。純粋に嬉しくて、寂しくなって泣きそうになってしまう。だけど、光子郎君は小さく笑って私を見つめてくるだけだった。私はもしかしたら、光子郎君にたった一言寂しいと言って欲しかったのかも知れない。

「いってらっしゃい」

その声音は、喜びもなく悲しみもなく、ただひたすら穏やかだった。いつもの「おはよう」とか「また明日」と同じだった。だから私も、結局最後までいつものように我儘なままだ。

「私がいない間に黙って彼女とか作らないように!」

そう言い残して、周りのみんなにも「じゃあ、またね!」と言い残してタクシーに乗り込む。最後の光子郎君の表情は、見なかった。それで構わなかった。ゆっくりと動き出すタクシーに合せて、首だけ動かして後ろを見る。小さく見える光子郎君は分かりづらいくらい小さく手を振っていて、それに返すように私も小さく手を振った。
いつか、あの手をまた握れる日が来るだろうか。前を向いて目を閉じて考える。光子郎君の言っていたグローバル化というのはいつ頃完成するのだろう。私には分からない。だから取り敢えず、私からの初めてのエアメールの相手は光子郎君になるのだろう。






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