指先に伝う熱は自分が人間だった頃となんら変わることのない感覚だった。それでも脳の奥で違う違うと何かが否定ばかりを繰り返す。説明なんて出来るはずのない漠然とした不安がいつだって自分を覆っているような感覚。
 それはこの先一生拭い去ることなど叶わないと知りながら、目の前の温かい身体だけは手放したくないとまた涙を流して彼女に縋るのだ。

「フランソワーズ、フランソワーズ」
「…ん、」

 明かりの消された部屋。ジョーの腕の中で、眠っているフランソワーズが微かに身じろいだ。起こすつもりなどないのに、名前を呼ぶことを止められない。いい加減にしないと彼女の能力もあるのだから、目が覚めてしまうかもしれないとは分かっているのに。
 ジョーはフランソワーズが好きだ。こんな身体に訳も分からず改造されて、もうどうなっても構わないと自暴自棄になっていた自分に生きる希望をくれた人。優しい人。愛しい人。傍にいて、幸せな気持ちになれる人。それでも時折、どうしようもなく寂しい気持ちにさせられる。
 そんな時、ジョーはただ彼女を抱き締めながら名前を繰り返すしか出来ない。まるで怖い夢を見た子供だ。

「…ジョー?」
「ごめん、フランソワーズ」
「眠れないの?」
「うん」

 胸に滾々と渦巻く不安など打ち明けられる訳もなく、眠気の所為かぼんやりとした瞳で自分を見つめるフランソワーズに、曖昧な笑顔を向ける。暗闇の中でどれ程の意味があるのか、彼女にならばあったのかもしれない。
 見抜いて欲しくない本心を抱えながら、愛しい彼女を抱き締める。力を籠めすぎたのか、少し苦しげに、腕の中のフランソワーズが胸に顔を押し付けるようにジョーを抱き締め返した。

「ねえ、ジョー」
「何だい、フランソワーズ?」
「このままでいて頂戴ね」
「え…?」
「このまま、私を抱き締めていて頂戴ね。朝が来るまで、私が起きるまで、離さないで頂戴ね」

 つらつらと語られる言葉は、覚醒しきれていない意識と二人きりという安心感の所為か、普段あまり聞かれないような、甘えたを含んだものだった。
 ジョーは一瞬、呆気に取られて返す言葉に迷った。その間をどう捉えたのか、フランソワーズは益々ジョーの胸に自分の顔を押し付ける。

「フランソワーズ、泣いているの」

 涙など、一滴も見えない。尋ねた理由も説明出来ない。それでも何故か、ジョーにはフランソワーズがこの二人きりの部屋でたった一人涙を流しているような気がした。不安に駆られて同じ様に涙していても、自分には彼女の涙を拭ってはやれない。
 フランソワーズは、きっと心の中で泣いている。だからジョーには拭えない。だけど気付いてしまった。気付いてしまえる。他の誰も気付けまいと思い、そうであってと欲しいと祈っている。

「フランソワーズ?」
「…貴方の所為よ。貴方が私の傍で私を置き去りにして泣いたりするからいけないの」
「………」
「ねえジョー、私、そんなに優秀じゃないわ。言ってくれなきゃ分からないの」

 責められている。優しい詰問は余計にジョーの涙腺を弱くする。不安なんだと曖昧な答えは果たしてフランソワーズの求めるものだろうか。もし何が不安なのかと問われればきっと答えは際限なく浮かぶだろう。過去も現在も未来も、何もかもが不安なのだ。自分の意義が何処にもない。幸せでもなかった日常はもうとっくの昔に奪われた。戻ることなどとうに諦めているし願わない。だけども何かを願う気持ちはいつだって絶えない。穏やかな日々を願うことは、決して罪ではないだろう。ただその穏やかな日々の中、隣にフランソワーズの存在を願うことは、傲慢だろうか。
 自分とフランソワーズが、どう在れば幸せなのか。正しいのか、許されるのか。そんなことを考えては答えなど出せずに途方に暮れる。そしてまた不安になる。どうか離れないで、消えないでと彼女を抱き締めても、彼女には何も理解出来ないと分かっていたのに。

「君と、ずっと一緒にいたいと願う度に不安になるんだ。どうすればそれが叶うのか分からなくて、目の前の君が消えないように抱き締めるしかないんだよ」
「…不安だから、泣いていたの?」
「ああ。ごめん」
「いいの。話してくれてありがとう」

 不安の拭い方など、いくら打ち明けても分からない。フランソワーズは指の甲でジョーの目尻に触れた。微かに熱を帯びていることが、彼が泣いていたことを彼女に教える。途端に、彼女もまたどうしようもなく泣きたくなる。意味のない謝罪を繰り返して、抱き締めてあげたくなる。それをしないのは、ジョーとフランソワーズの関係が母子などではなく愛し合う恋人だからだ。

「ねえジョー、私何処にも行ったりしないわ。貴方がこうして私を抱き締めていてくれるなら大丈夫よ」

 安い言葉だと思った。だけど決して嘘じゃない。いくらフランソワーズが言葉を掛けてもジョーの内側に宿る不安が消えないのなら、彼が涙を流すことを止めないのなら。その度傍にいて彼の涙を自分が拭ってやる他あるまい。

「…フランソワーズ、ありがとう」
「お礼はさっきのお願いを叶えてくれるのがいいわ」
「勿論そうするよ」
「おやすみなさい、ジョー」
「おやすみ、」

 挨拶と、そうして目を閉じる。ジョーも、フランソワーズをしっかり抱き締め直して瞼を下ろした。きっと、朝起きれば自分の腕の中には彼女がいる。一時、不安を消すように彼女は自分に笑い掛けてくれるだろう。それだけを信じて、意識を闇に落とす。
 明日の夜も、同じ様に彼女を抱き締めて眠れば同じ様に朝を迎えられるだろうか。それならば、ジョーはきっと毎晩フランソワーズを抱いて眠るだろう。それは間違いなく幸福な眠りだとは、気付かないまま。



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そうして千年幸福になると言って
Title by『ダボスへ』





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