戸惑いで肩を縮こませた途端鋭い視線が降ってくる。咎めるよりも優しく、お願いよりも鋭い効果を持ってそれは玲華の身体を強ばらせた。触れている右手からその気配を感じ取った竜持はさして悪びれた風もなく口先だけの謝罪を寄越した。

「すいません。でも困りますよ玲華さん、動かないでくださいって言ったじゃないですか」
「ご、ごめんなさい…」
「わかってくれればいいんです」

 玲華の言葉に、それでいいと微笑む竜持は勝手だ。玲華には何の非がないと知りながら、自分の好奇心を中断させたことは事実だからと巧みに彼女が自分に都合よく落ち着く言を心得ていた。初めの謝罪だって形だけで、あまり玲華ばかり萎縮させてしまうと追々虎太に怒られてしまうから、言っておくだけ。尤も玲華が虎太に告げ口することは有り得ないので、この場に兄がいない以上何も心配することはないのだけれど。とはいえ此処は降矢邸。竜持の自宅であるということは虎太の自宅でもある。今は出掛けて留守にしているがその内帰ってきてしまうだろう。それでも、何ら後ろめたいことはないのでこそこそするつもりも必要もない。寧ろ留守中に玲華が来ていたことにどんな反応をするか楽しみだ。その点凰壮は面白いリアクションが期待できないのでつまらない。

「あの、竜持君…」
「何ですか?」
「これ、全部塗るの?」
「当然でしょう。でなきゃ見栄えが良くない所か汚いですよ」
「そう、だね」
「そうですよ」

 いまいち乗り気ではない玲華が逃げ出さないように竜持は掴んでいた彼女の手を一層引き寄せた。右手の爪に塗っているトップコートははみ出すことなく玲華の爪を覆っている。最後に残っていた小指にも同じ施しをして、感想を促す為に息を吹きかければ玲華の手がびくりと震えた。意地悪い笑みで彼女の方を見つめると、想像通り頬を紅潮させた玲華の顔があった。

「どうかしましたか?」
「え、と、何にもないよ?」
「へえ、」
「あの、もう終わり?」
「まだですよ。左手と、折角だから色着けましょうか。薄いピンクとかなら目立ちませんよね」
「でも明日学校だよ?」
「だから目立たない色にしようとしてるんじゃないですか」

 玲華の手を掴んだまま、竜持は足元の百均のビニール袋から帰り道で購入してきたマニキュアの小瓶を取り出す。思い付きで選んだ割には玲華で遊ぶことをきちんと念頭に置いていたようで、三つほど購入した色はピンク、オレンジ、ブルーのどれも淡い色合いのものだった。これならば、渋ることも気後れの理由も簡単に封じ込められるそうでなくとも、竜持が玲華を押しきれない事態なんて有り得ないだろう。
 自宅に玲華を連れ込んだのは暇つぶしに書店に出掛けた帰り道のことで、真新しいこともなく店を出る直前の雑誌コーナーで隣に立った女性の派手なネイルが目についたことを思い出していた竜持の向かい側から偶然玲華がやって来たのである。無視する関係でもないので挨拶すれば、彼女が返す挨拶に添えて挙げられた手の指先に目が行った。小学生らしく、また他人と接触するスポーツをする人間の身嗜みとして正しく彼女の爪は身近く切りそろえられていた。
 それを見た瞬間、むくむくと好奇心が顔を見せて、玲華にこの後空いているかと尋ねたのに頷かれた途端竜持は彼女の手を引いてマニキュアを買いに百均に乗り込んだ。コンビニや化粧品を扱う薬局でもよかったけれど男の子である竜持には値段の相場がわからないので、利用したことのない店を選択した。どれだけ慇懃な物言いをしてもまだ小学生、親のお恵みなしに財布の中身を潤すことはできない。一時のお楽しみに過ぎないのだから、安くあげておくに越したことはない。巻き込まれる玲華からすればどちらにせよ災難であることに違いなかったが。
 店を出て、始終おろおろしている玲華に気休めに微笑んで「それじゃあ行きましょうか」と行先を告げずに歩き出してそのまま彼女を自宅に連れ帰って来てしまった。顔見知りにしたってこんな手口の誘拐犯がいそうだなと思わず呆れてしまった。家に誰もいなかったことは、作業を始める上では好都合だったけれど、玲華を心細さの意味では不利だった。虎太や凰壮がいればもう少しマシだったかもしれない。それでも竜持は構わずさっさと自分の部屋からノートパソコンを持って来てネットでマニキュアの塗り方を検索して、その間玲華には適当にくつろいでくれとそれこそ無理なことを言って放っておいてしまった。テレビ前のカーペットの上に小さく正座する彼女に「どうしてソファに座らないんですか」と声を掛けたのは既に十数分が経過してからのことだった。
 作業するには床の方がいいかもしれないと、結局玲華にはそのままでいるように言った。竜持は彼女の真正面に腰を下ろして有無を言わさずその右手を取った。何をされるのか、買い物から付きあわされた以上全く察しがついていないわけではなかったけれど。理由はわからず、意味もわからない。混乱して、気性も手伝って黙って戸惑いを浮かべながら竜持からの歩み寄るのを待つだけ。それが一番望みの薄い行動だということを知っていたとしても、玲華にはそれしか方法がなかった。

「玲華さん、指先綺麗ですね」
「…そうかな」
「ええ。だからこうしてきちんと手入れした方がいいですよ」
「う、うん」
「…あんまり素直に転がされ過ぎるのも問題ですねえ」
「え?え?」

 声の調子は軽いが動かす手は真剣そのもので、竜持は顔を上げない。自分の爪に他人が色を乗せる感触がこそばゆくて直ぐにでも手を引っ込めてしまいたいけれど、そうすれば彼は怒ってしまうだろう。だから玲華は唇をぎゅっと結んで耐えている。
 ものの数分で竜持の顔が上がる。終わったのかしらとほっとした玲華に釘を刺す様に「まだ乾いてませんから、もう少しじっとしててくださいね」と先手を打たれた。落胆が顔に出ていたのか、笑われてしまった。恥ずかしくなって俯いてしまった玲華に、竜持は「乾いたら二度塗りしますか」と追い打ちをかける。それはもういらないと必死に首を振ると今度こそ竜持は意地悪に、彼っぽく笑った。

「何か飲みます?手が塞がってるなら僕が飲ませてあげますよ?」
「いっ、いい!大丈夫!」
「冗談ですよ」
「…もう、」
「そういえば除光液は買わなかったんですよね。玲華さんのお母さんなら持ってますかね…。お手数ですが爪、落とすのは玲華さんの方でお願いします」
「え……」
「どうかしました?」
「何でもないよ!」

 竜持の追求を拒む為、再度首を振ると彼は不思議そうに首を傾げはしたものの何も言わなかった。そのことに感謝して、玲華はじっと自分の右手の指先を見つめる。竜持が塗った、ただの気紛れのマニキュア。シンプルで、けれど小学生の男の子が塗ったとは思えない丁寧な仕上がりだった。
 色を乗せることを、翌日の学校を理由に尻込みしたのは玲華の方。それを押し切ったのは竜持の方。そして彼は、家に帰ったらそれは落としてしまえばいいと言う。玲華はそれを、反射的に残念だと思った。長い間竜持に捕まれていた右手の熱さとは対照的に指先は冷えている。彼の視線と関心を引いて、視線を独占したその場所を、玲華はただじっと見つめ続けた。この好奇心は二度とは起きない。彼女はそれを知っている。
 だから玲華は必死に考える。このくらいの色なら、落とさないまま学校に行ってもばれないんじゃないかしらだとか。けれど放課後には桃山プレデターの練習があるから、そこで落としていないことを竜持に気付かれたらまた意地悪く笑われてしまうんだろうだとか。それでもそんな想像も、竜持が満面の笑みを浮かべながら「次は左手ですよ」と玲華の左手を取った瞬間に弾け飛んでしまうのだ。
 嗚呼、本当今日の竜持はどうかしているとしか思えない。こんな至近距離は、玲華の心臓に悪い。爪先と同じ、薄いピンク色の気持ちが膨らんでしまわないように、玲華はまた唇を噛んで竜持の気紛が過ぎるのをただひたすらに待っている。



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おめかししませう
Title by『魔女』


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