※未来捏造


 穏やかな日だった。そうは言っても、近頃は迎える朝と送る夜、どれをとっても穏やかでない日などありはしなかった。番犬の首輪を外されて、もうどれくらいの月日が経つだろう。数えようと思ったことはなく、過去を懐かしむのはいつだってシエルではなくリジーの役目だった。そう割り振っておかないと、冷たく暗い記憶ばかり掬ってしまうのが彼の悪い癖だったから。そんなシエルの昔話を、リジーは僅かな隙間に零れ落ちてしまった輝きを放つものばかり拾い集めて差し出してくれた。彼女だって苦しんで、泣き喚いて、傷付いた日々だったろうに。それでも微笑を絶やさずに自分の隣に変わらずいてくれるリジーをシエルは今度こそ逃げずに受け止め続けようと決めたのだ。それさえも、今では遠い思い出の中にある。隠居身分となったシエルの日常は温く穏やかで、そして緩やかにしか進まなくなっていた。
 昔よりずっと寝坊助になってしまったとシエル自ら苦笑する。起こしてくれる使用人たちは相変わらずいるものの、容赦なく力付くで叩き起こしにくるような面の皮が厚い使用人とは既に袂を別ってしまった。あれは有能で万能だった。端正と妖美を兼ね備えた、人の形をした悪魔の執事。種の差からくる価値観の違いは存外不便で、情という面では間違いなく最後まで通じ合うことはなかった。けれどまあ、人間の分際でよくよくあの悪魔を付き合せたモノだと感心したくもなる。復讐の片手間の日常すらアレがいなければ立ち行かないことばかりで、やはり感謝してやるべきかなと部屋を見渡す。数年前、ただでさえ一人で眠るにはサイズの大きかったベッドをもう一回り大きい物に新調した。趣味じゃないんだがと散々粘ったものの結局押し切られて、どこか少女趣味の可愛らしい印象を与えるベッドと布団、天蓋付きの白いレースのカーテンに囲まれて毎晩眠るようになった。差し込む朝日の眩しさも強まったはずなのに、悪夢に魘されなくなった眠りはシエルが忘れていた以上に深くなり瞼を押し上げるには全く無力だ。叔母であり義母でもあるフランシスが来訪する日は流石に気合いを入れて早起きするように心がけてはいるのだが、相変わらずそんなシエルの小細工など通じるはずがなかった。顔が嫌らしいと非難を引き受けてくれる執事がいなくなってから、シエルは色々と大変な思いをしたものだが敢えて思い出さないようにしている。暗い思い出などではないのだが、思わず溜息を禁じ得ない類のものであることは間違いないのだ。こんな風に、もうすっかり日が昇りきっている時間にまでベッドから抜け出さない姿を見咎められたらその日一日解放して貰えなくなるだろう。相変わらずというよりも、益々もってシエルは剣を持つ気概はなくなっていたし、背筋を伸ばして他人を踏みつける必要ももうなくなっていた。結果だらけてしまったと叱られてしまえば、もうシエルには返す言葉がないし、返そうとも思わない。
 そういえば、アレには自分たちが結婚した姿を見せることはなかった。あれだけ小さい頃から許嫁だと言い聞かされてきたリジーとの結婚は踏み切ってさえしまえばどうにでもなるものだった。つまりはシエルひとりの意気地に全てが掛かっていて、周囲の人間にはもっとリジーがどれだけ素晴らしい女性かを自覚した方がいいと滔々と説かれた。彼女がいなければお前はなかなかろくでもない男だよとも。失礼だと憤慨するよりも、その通りだと首肯してしまう辺り、本当にろくでもない。だからそんな自分と結婚することに何の躊躇いもないのかとリジー本人に尋ねれば今更なんてことを聞くのと涙ながらに怒られた。私以外の誰がシエルを幸せにしてやれるって言うのと堂々と言いきられたときは思わず見惚れたものだ。彼女と同じ血が自分にも流れているはずなのに、どうしてこうも違うかなと首を傾げながらリジーを抱き締めて、初めてか弱いと思った時、シエルはこの先の人生をリジーに捧げることを決めた。言葉にすれば、きっとまた私はそんなことシエルと出会った日から決めていたわと言いきられてしまうだろうから黙っていたけれど。あの時シエルは、リジーにだけ愛しいという気持ちを返して貰ったのだと思った。身を堕として、魂だけは輝いて、きっと心は暗かったあの頃をなかったことには出来ないから、せめてこれから人生を共にするリジーを悲しませることだけはないようにと、シエルは神にではなくあの食えない悪魔に誓ったのだ。勝手に誓われても迷惑だと言われるかもしれないけれど、アレの迷惑を考えるシエルでもない。

「――シエル、起きたの?」

 声が届くのと同時に窓辺のカーテンが風に膨らんだ。窓が開いていたことに漸く気が付いて、一度大きく深呼吸する。それから声がした寝室の扉の方に顔を向けると、妻のリジーが年齢にそぐわない子どものような仕草で顔だけを覗かせていた。
 視力を失った右目側の死角を補う手段をこうじていない所為で、今のリジーの立ち位置は少しシエルを困らせた。そのことに彼女は直ぐに気が付いて、あっさりと駆け寄ってきて上体を起こしていたシエルの首に腕を回し抱き着いた。貧弱に押し倒されることも、気恥ずかしさに押し戻すこともしない。ただ当たり前のようにリジーを抱き締め返す。既に寝間着から着替えているリジーの衣装からは甘い花の香りがした。きっと庭に出ていたのだろう。この屋敷の庭には、リジーの為に彼女の好きな花ばかりを植えている一角がある。そしてそこは彼女のお気に入りの場所でしょっちゅう足を運んでいるようだから。

「おはよう、リジー」
「ふふ、もうおはようの時間じゃないわ」
「起きてはいたんだ。だけど夢を見ていた」
「そう、懐かしい夢?不思議な夢?――悲しい夢ではないでしょう?」
「ああ。そうだな、たぶん懐かしい夢だ。アレと居たころの夢」
「ふうん、あまり独身時代に浸られると寂しくなるわ」
「必要ないよ。僕の記憶にリジーのいない頃は少ないから」
「その少ない一か月半で貴方の人生は変わってしまったわ」
「だけどこうして正しく戻って来たよ。こんなに寝坊出来るくらい平和な日々は想像も出来なかった」

 過去の自分の歩んだ道を間違っていたとは正直言いきれないのだが、便宜上シエルは現在を肯定する為に正しいと言った。それを、リジーは恨みがましい目で見つめてくるものだから思わず苦笑してしまう。契約を隠す為の右目の眼帯は一生ものになってしまった。ベッド横のキャビネットの上に置いてあるそれを取って装着すると、それがシエルの起きるという合図になる。リジーは一足先にベッドから降りて開いていた窓を閉める。

「朝ごはんは食べるでしょう?」
「――勿論」

 手早く衣装棚からシエルの服を見繕ってベッドの縁に掛けて行く。メイドのような仕事も、シエルのことだったら構わないのだと彼女は言う。そんな甲斐甲斐しくしてくれなくても自分はもう何処にも行けやしないと告げるのは意地悪だそうだ。
 シャツのボタンを留めながら、またもうここにはいない悪魔のことを考える。喰ってしまっても構わなかったのにと何度も思った。だってそれが契約で、シエルは散々アレを酷使してきたのだから。覚悟もそれなりに決めていたのだが、無駄になってしまった。その決意がそのままリジーの幸せへと移行したのならば完全に無駄とは言わないのか、シエルには断言できない。二度と会うことはないだろう、あの悪魔は今頃どうしているだろう。くたばってはいないと信じているが、また自分の用に見識の狭い愚かな人間を捕まえているだろうか。そうであれば良いと思う。だってアレはあれだけ働いた挙句に自分を食い損ねたのだ。きっと腹が減っているだろう。人間とは作りが違っても飢餓はいけない。寝坊の所為で朝食をまだ取っていないというだけで、シエルの身体は情けなくも力が出ないのだから。
 しかしどれだけ過去を夢に見ても、悪魔に世話を焼かれる朝食よりもリジーを隣に食べる朝食の方が幸せなんて言ったらアレはきっと嗤うだろう。それで良い。柄じゃないとはわかりきりながら、シエルは今間違いなく愛に生きる貧弱な人間でしかないのだから。


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人間になるまで愛してあげる
Title by『彼女の為に泣いた』


魂食われない代わりに右目持って行かれちゃったみたいな。



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