スペインに発つ青砥の準備を手伝ってやってくれないかと多義がエリカに打ち明けたのは、彼がもう青砥宅のチャイムを鳴らし中から扉が開かれてしまったのとほぼ同時だった。呼び出されて、着いてきてと言われて素直に従ってしまったことも問題かもしれないが、てっきり多義の家にでも向かっているのだろうと呑気に構えていた自分の迂闊さをエリカは胸中で罵った。「俺はこれからちょっと用があって手伝えないんだ」という多義の言葉に疑いの眼差しを向ける。よほど鋭い視線を送ってしまったのか、慌てて手を振って本当だと言い募った。 「本当に用事あるんだってば!でも青砥ひとりに準備させるのってなんか心配だろ?」 「アンタは青砥君のオカンか!大体こうゆうのは竜持君とか玲華ちゃんとかもっとしっかりした子に頼んだ方がええんと違うん?」 「……でもそれじゃエリカは嫌だろ?」 「へ?」 「告白、もう時間ないぞ」 「なっ――何言うてるん!?」 しっかりと声を潜めながらも多義の指摘にエリカはさっと頬を紅潮させる。青砥はこそこそと目の前で話し込む二人を無感動な瞳で見つめている。どうせなら、このやりとりを終わらせてからチャイムを鳴らしてくれれば良かったのにと思いながら。そろそろ開けた扉を支える腕がしんどくなってきたので、入るなら入るでさっさとして欲しい。 そんな青砥の不満を察知した多義はエリカを玄関に押し込むと「忘れ物しないようにな!」と言い残してさっさと帰ってしまった。青砥はそれに頷いて、あっさり扉を閉めてしまう。呆然と立ち尽くすエリカに青砥は一瞥を送り、チームメイトだからと用件も聞かずに招き入れた彼女の訪問理由を知らないことに気が付いて「手伝い?」と首を傾げた。それが何の手伝いなのかがわからないからなのか、何故エリカが自分を手伝いにやってくるのかがわからないのか。一体どちらかがわからなくて、エリカは答えに窮してしまう。 「えっと、スペインに行く準備手伝ってやってって多義君に言われたんやけど…」 「準備、もう大体終わってる」 「…そっか、」 「でもタギーは少なすぎだって煩い」 「多義君、心配性やから」 「ん」 知ってる、という意味なのだろう。青砥はエリカを促すこともなく奥へと廊下を進んでいく。彼の家だというだけで玄関の扉すら勝手に開けて逃げ出すことを憚られたエリカは意を決して靴を脱ぎ後を追った。初めて足を踏み入れる青砥の家。他人の家に行くと毎度思う匂いの違い。意識しかけて、やめた。数秒で辿り着くリビングはエリカの家よりは質素で、けれどありふれた家庭の姿。何かが足りないということも、溢れているという印象もない。ただ青砥ひとりで過ごすには余分なものもあっただろう。けれど、だからこそ、エリカはあと少しで青砥がこの家を出てスペインに旅立ってしまうことがまだ信じられないでいる。行かないでなんて、そんな重たい我儘を押し付けるほど親密でないことは理解している。けれどどれだけ一方的だとしても寂しいと思う。 サッカー選手としてであれば素直に流石だと称賛する気持ちもあるのだ。自分も惚れ込んだプレーを世界に見せつけてくれるに違いないと得意げにだってなれる。何より同じようにスペインへ向かう虎太に対しては応援する気持ちが強いのだから、エリカはこの寂しさは青砥への恋しさなのだなと思っている。 奪われた心はいつの間にかサッカーへの情熱を通り越して青砥自身へと行き着いた。自分の実力を認めて欲しいという願いは、高遠エリカという人間を見て欲しいという願いを含むようになった。けれど自覚した恋心を叶える為の決定的な言葉を告げるつもりはなかった。今日、多義の余計なお節介に導かれるまでは。 知人と呼べるほど近しくもない、チームメイトですらなかった頃の勢いは、蹴り合うボールの疎通が上手くいくようになればなるだけ仲間という心地良い空間に飲み込まれてしまった。不満があったわけではなく、少しでも一緒に同じピッチでプレーしていられたらそれは確かに幸せなことだったろう。けれどそれは絶対にエリカの恋心を叶えたりはしてくれない舞台だった。 サッカーを離れてしまえば途端に二人はぎこちなくなる。エリカの緊張を青砥は感知しない。誰よりも熱の籠もった視線を送っても同じこと。嫌悪ほど行き過ぎず、好意にはほど遠く、無関心ほどゼロでもない場所でエリカはいつだって途方にくれている。今だって、リビングに置かれたボストンバックを引っ繰り返して中身を確認して見せる青砥に掛ける言葉をエリカは持たなかった。 「――これで全部」 「パスポートは?」 「机の上。財布とか入れる鞄はまた別だから」 「あ、それもそうやね」 「…でもわかんなくなると困るから入れとく。取ってくれる?」 「うん」 青砥の視線の先にあるテーブルの上には確かに彼のパスポートがぞんざいに置かれていて、それを手に取ったエリカは、本当に彼だけがスペインに行ってしまうのだという実感に襲われた。桃山プレデターの皆で飛行機に乗り込んだ時とは違う。エリカのパスポートはあの時を最後に引き出しにしっかりと仕舞われたままなのだから。 パスポートを手にしたまま微動だにしなくなってしまったエリカを訝しんで、けれど青砥は無言で彼女の背中を見つめることしかしなかった。そして場違いにも、エリカの背中という光景が見慣れないものだったなということに思い至った。青砥がエリカを見つめる時は大抵試合中だったり、彼女に呼ばれて振り向いて駆け寄ってくる姿だったり、兎に角ころころ変わる表情ばかりが印象に残っている。 「――青砥君?」 「……何?」 「はい、パスポート」 「ありがと」 青砥が物思いに耽りかけた途端、エリカは振り返ってパスポートを差し出した。受け取って、少しだけぎごちなくなってしまった態度にエリカは気付かない。彼はボールを蹴っていない時はぼんやりとしていることが多かったからと割り切ってしまった。 ボストンバックを挟んで、青砥の真向かいにエリカは腰を下ろす。散らかした荷物をまた仕舞う青砥の作業を手伝うことも出来ずにただ眺めている。 「青砥君、」 「なに」 「気を付けて行って来てな」 「――うん、」 「青砥君なら全然心配いらんと思うけど、うち応援してるから!」 突然何を言い出すのだろうと思ったけれど、直ぐにこれは餞別の言葉なのだと青砥は納得した。しかしその納得が直ぐに疑問に変わる。確かに自分はスペインに行く。旅行ではなく、そこで生きて行く為に。だけどそれは今日ではないし、明日でもない。エリカの言い方はまるで今日を最後に、彼女がこの家の扉を出て去って行った瞬間に青砥が消えてしまうかのような寂しさと諦めを滲ませていた。 「ねえ」 「な、何?」 「見送り来ないの?」 「え…」 「タギーは来るって。あと手紙出すとも言ってた」 「そうなん?多義君のことやから青砥君がスペイン着く頃にはもう届いてたりして…」 「お前は?」 「―――、」 思ってもみなかった青砥からの言葉。瞳には強い光。思わず後ろに引いてしまったエリカはその意味を深読みしすぎないようにと唇を噛む。電話は難しくなるから、繋がりを保とうとすれば手段は手紙しかないだろう。けれど、出しても良い物だろうかと思っていた。チームを離れてしまっては、青砥と自分にはもう何の共通点がないからと。 ――手紙、出してもええの? 尋ね返すより先に、エリカの瞳からは涙が溢れていた。安堵とか幸せとか、それでもやはり別離への寂しさを含んだ涙だった。真正面から突然泣き出してしまったエリカを目撃してしまった青砥はぎょっと目を見開いて、それから困ったようにバックの中から仕舞ったばかりのタオルを取り出して彼女の顔に押し付けた。 「貸す」 「…ありがとう」 「でもそれ結構お気に入りだから、出発前には返して」 「うん、洗濯して明日にでも返すから」 「…そんな急がないで良い」 「どっちなん?」 「そっちが極端」 「そうなんかなあ」 「絶対そう」 日本を離れたらお別れとか、桃山プレデターを離れたら何もないとか思っていそうな所とか、絶対そうだ。青砥はひとり心の中で言い切る。そんな青砥の胸中を知らないエリカは、今日の彼は随分優しいのだなと不思議な心地でいた。 ――ごめん多義君、やっぱり告白は無理や。 だけど、感謝もしている。きっと青砥は手紙の返事を毎度寄越したりはしないだろう。お気に入りのタオルを譲らないように、何処に居ようと青砥は青砥のままだから。でもエリカは大丈夫。ほんの少しの優しさで、エリカはこれからも遠い空の下から青砥を想っていられる。 それくらい、この僅かな時間の中で青砥が差し出した優しさは今世紀最大と銘打っても良いくらいの威力を持っていた。 ――――――――――― 今世紀最大のやさしさですよ Title by『魔女』 『宇宙のぬくもり』様に提出 |