『泡になって消えてしまった女の子を知っている』

 その女の子はいつだって絵本の中にいて、愛した王子様に選ばれる喜びを知ることなく、それでも自らの想いを貫いて水に還る。それは死んでしまったということと同義で、幼いながらにこの王子様は酷い人間だと思ったものだ。命の恩人の想いに気付きもしない、目の前に現れた他の魅力的な女性を選ぶだなんて。恋の煌めきも薄暗さも、喜びも痛みも知らない頃のさやかはそう思っていた。主人公だからって、命を助けたからって、どれだけ長い時間想い続けたって。叶う見込みのない恋はそこで終わるのだ。
 幼馴染の上条恭介を見つめ慕ってきたさやかの歴史は長い。幼い友愛の域からの曖昧な想いを含めても人生の殆どとも言える程だ。恭介のヴァイオリンを素晴らしいと思った。全く音楽に通じていない自分の心すら揺らしてみせた彼の音色は、決してさやかの慕情による贔屓目などではなかった。周囲にも評価されていく恭介の隣で、さやかは自分が一番彼とその音色を愛しているのだと自負していた。張り合う相手のいない思い込みは恭介の優しさの所為もあって傲慢な角を落としながら恋になった。どうかこのまま、一番近くで笑っていられたら。その音色に耳を傾けていられたら――。その願いはきっとささやかだった。さやかが恭介に恋をしていなければ、きっと。一番の意味を特別にしなければ。
 恭介の穏やかな性格と言動に反するようにさやかの所作は女性らしさを若干欠いた粗野なものだった。それでも親友のまどかや仁美の性格と衝突することなく対等にある現在が、従来のさやかの優しい根底を物語っているようでもあった。育ちも品も良い恭介の前に立つことに気恥ずかしさを覚えたのかもしれない。活発さが故男の子らしい振る舞いを好む女の子は小学生であればさほど珍しくはない。けれど中学生になって制服のスカートを履かされてしまえば否が応でも男女の区別を認識する。言動も環境に応じて落ち着いていく。さやかだって同様でさばさばした性格が時折言動を雑にするくらいで、女の子として浮くようなことは決してなかった。付き合っている親友たちが女の子の中でも比較的大人しい部類にいるから偶々活発に見えるだけ。

「落ち着きがないように見えるけど、さやかって面倒見がいいタイプだよね」

 花瓶の花を活け変えるさやかの背に恭介が放った言葉。振り向いた彼女は自分への評価が意外で仕方がないと言いたげに瞳を瞬いていた。幼馴染として恭介だってさやかを一番長く隣で見てきた。それなりの理解はあるつもり。ヴァイオリンという揺るがない絶対の傍らにいる彼女に、事故で腕を負傷してから漸く目が向くようになったことに対して恭介はどこまでも無自覚だった。さやかが自分に恋をしているだなんて気付きもせず、ただ自分に一番近い女の子は彼女なのだと安易に優しくて残酷な評価をさやかに抱いている。
 さやかは恭介の言葉に何も言わずにベッドの隣に置かれた椅子に腰を下ろした。開け放った窓がカーテンをはためかせて、さやかはそのずっと向こうの遠い空な視線を投げている。はらりと揺れる前髪と、それらを端で留めているピン。組まれて膝に置かれた両手と揃えられた両足。頭の天辺から爪先までさやかの全身を視線でなぞれば、彼女がまごうことなき女の子だということが理解できた。出会ったその日から知っていた事実を、今更頭の中で証拠を組み立てて理解を促す。ベッドに横たわるだけの退屈が暇潰しを求めているのかもしれない。
 毎日の様に恭介を見舞い、時折クラシックのCDを見繕っては偶々珍しいのが店頭に並んでいたからと毎度捻りのない文句と共に彼の前に差し出す。恭介が礼を言ってCDを受け取った時、片方のイヤホンをさやかに差し出した時。はにかむようなさやかの微笑みに、これまで自分の隣にいた彼女との隔たりを感じて戸惑った。最初こそ、何かあったのと前後の脈絡もなく問いかけてはさやかを困らせた。けれど次第にそれは特別意識された笑みではないと気付き、恭介も追及しなかった。自分への恋心が漏れ出た女の子の微笑みだなんて、恭介には気付けなかった。
 ヴァイオリンだけで生きていける人だった。傍らで出会ったさやかに向ける親しみは、恋という膨大な熱量を注ぎ込まれることのないまま幼馴染という気安い友だちの枠にはまった。さやかでなくとも、いてもいなくとも構わない。無慈悲な事実を内に抱えたまま、恭介はさやかのことをそれなりにという程度でもって好いていた。けれどさやかには恭介だけだった。親友はいた、家族だっていた。しかし初めての恋は不器用で盲目で手探りだ。さやか自身が語るに似合っていないと諦めてしまったからなのか、誰にも積極的に打ち明けることの出来なかった気持ち。察して寄り添ってくれる人に、ポツリと欠片を漏らすだけ。想うだけの日々が続くのだと思っていた。恭介の腕が回復して、寄り添う場所が病室からステージや教室に移ろうだけなのだと。けれどそれは大きな間違い。さやかは知っている。自分がヒロインではないこと。命を助けたとしても、どれだけ長い時間想い続けたとしても叶わない恋はありふれていること。忍び寄る影はさやかの眼前まで堂々とやって来て迫った。真っ暗な海に突き落とされて瞬間一気に深海へ。何も見えない闇の中、水圧で身動きすら取れなく
て。奇跡も魔法もあるけれど、それすら飲み込む現実の試練は奇跡の残骸となったさやかには乗り越えられそうになかった。

『魔法で足を手に入れた人魚姫は愛しい王子様の下へ。けれど彼は人魚姫ではない女性を愛してしまいます。このままでは泡になって死んでしまう。彼女を案じた姉姫たちは魔女と取り引きをして、人魚姫が短剣で王子様を殺せば彼女は死なずに助かると教えます』

 さやかも同じ。恭介への想いを殺せていたのならば、きっと砕けたりはしなかった。恭介を想わなければ、未知なる陸地に脚を伸ばすことはなかった。けれど、その想いがなければどんな風に自分が生きていたのかを思い描くことは、さやかには途方がないことだった。恋したことを悔やめない。だからどれだけボロボロになってもさやかは泡になって引き裂かれ海に堕ちる。真っ暗な水底、誰の言葉も届かない。聴きたい音色はあるだろうに、独り善がりでも幸せだった過去の中の音色ばかりを再生しているから、やっぱり何も聞こえない。そして最後にぷつりと水泡すらも消えてしまうのだ。何も言わないまま。言えないまま。
 ――王子様は、人魚姫のことを覚えていられるのかな?
 さあ、果たして。


『泡になって消えてしまった女の子を知っている?』

 耳の奥で、そんな言葉が響いた。誰の声かはわからない。少なくとも恭介には馴染みのない声だった。
 一番馴染みがあった筈の女の子は、もう世界中のどこを探しても見つからないし、声を聴くこともない。高熱の炎に焼かれてほんの数時間で真っ白な骨になってしまった。泡とは程遠い無機質な、けれど原型を知る恭介には何よりも惨たらしい光景だった。
 自室の机上、入院中にさやかから贈られたCDの山。改めて積み重ねてみれば結構な枚数で、バイトも出来ない中学生の彼女がこれだけの物を自腹で購入していたのかと思うと感謝よりも申し訳ない気持ちで一杯になる。ずっと気を遣わせていたのだろう。閉じた病室の中で横たわる自分が不安に囚われないように、安い同情だけを浮かべていれば良かったはずなのにわざわざ飛び込んできたのだ。それが、幼馴染だからという観念からならば大したものだ。立場が逆だとしても恭介にはきっと出来なかった。だって彼にはヴァイオリンが最優先事項だった。
 だからさやかが家出をしたと聞かされた時も、ホテルの一室で死体が見付かり衰弱死と断定された時も恭介は心当たりなんて全くなかった。受け止めがたい非日常な現実は、恭介の中から何かを奪い去って行った。もう演奏会のステージから客席を探しても、自宅で練習をしていても、恭介のヴァイオリンが好きだと隣にやって来る女の子はいなくなってしまったのだ。

「…さやか、」

 もう何日も、その名を呼んでいなかった。最後に彼女に面と向かって名を呼んだのはいつだったか。現代の医学では怪我は治らないと言われて、さやかに八つ当たりをして。それから直ぐに奇跡が起こったのか回復して。さやかに形ばかりの謝罪をして屋上に向かってヴァイオリンを弾いた時だろうか。だとしたら、また随分と昔のことのような気がする。リハビリに夢中で、また音楽に携われることが嬉しくて。男子に人気のある可愛らしい女の子に告白されたりもして。これからの前途が一気に開けた心地で浮かれていたのだろうか。その夢心地を確定させる為の対価だとでもいうのだろうか。

『人魚姫は、足を得る対価に美しかった声を差し出しました』

 泡よりも醜く、けれど確かに消えてしまったさやかも同じように失っていたのだろうか。だから何も言わずに去ってしまったのだろうか。死という絶対的な断絶に阻まれては答えなど未来永劫知る由もない。だけど恭介は知ってしまった。自分で思うよりもずっと、さやかの存在が大きかったことを。それが今、どうしようもなく辛いのだ。身勝手で人でなしだと謗りながら、もう痛みたくないと頭を振る。

『泡になって消えてしまった女の子を知っている?』

 知っているとも。繰り返し響く言葉に、恭介は頷いた。人魚姫のように、アンハッピーな終わり方。もしもさやかが人魚姫だったというのならば、自分の配役はまさか王子様だったのか。恩人とは違う娘に心惹かれ追い詰めた恋心故、人魚姫は泡となって海に還る。還ることが出来たのならばどれだけましだったか。さやかは人魚ではなく人間だった。水底などで生きていけるはずがない。だから彼女は溺れて死んでしまう。助けてとも言えないまま。愛しているとも言わないまま。
 さやかを面倒見の良い女の子だと思っていた。意地っ張りで口煩くて、無遠慮に踏み込んでくるから時々鬱陶しくなるけれど、根は臆病な優しい女の子だった。しかし今始めて、恭介はさやかを薄情だと思う。毎日見舞ってくれなくて良かった。CDなど贈ってくれなくて良かった。何も言わず消えないでいてくれたのならば、それで。
 その願いがどれだけ自分本位でさやかの恋心を踏みつけているか。恭介はこの先一生知ることはないだろう。さやかもそれを望まなかった。ただもう一度恭介のヴァイオリンの音を胸に刻み水底から舞い上がり消える。全てが恭介には預かり知らぬ場所での出来事。
 人魚姫が空気の精となって天界に迎えられたらことを、王子様を始め誰も知らない。
 美樹さやかはもう何処にもいない。それだけが、探すまでもない真実だった。




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呪われていたのはぼくのほうだった
Title by『告別』





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