シエルは自分のしていることが、エリザベスから向けられる好意をどれだけ無碍に踏みつけているかを自覚していた。一般の目で見れば子どもに分類されるシエルの黙殺という選択肢は、都合よく取り立てて貰えるならば照れ隠しで済まされるのだろう。だがシエル自身が自覚してしまっているからそんな微笑ましい名前は付けてあげられない。与えられるものを拒まないくせに躱し続けることが次第に婚約者であるエリザベスの笑顔に陰りを落としていくことを知っていた。けれど一度踏み出してしまった足は止められず契約は己の左目に宿りシエルを縛る。望んで繋いだ鎖を彼は忌むべきものとは思わない。この身に負った傷も、業も欲も宿命すらも洗いざらいエリザベスの前に曝け出せたとして、彼女はきっと泣くだろう。シエルを想って、シエルを想う自分を想って、寄り添えない自分たちの未来を嘆いて。それだけが、シエルには怖いのだ。親に決められただけの婚約者だと諦めてくれれば良かったのに。きっかけなんて知らない。だがいつしかエリザベスが自分に、婚約者だからという理由を取り除いたとしても差し出してくる感情があることに気付いてしまった時、シエルは喜びよりも嫌な緊張感を覚えてしまった。そしてその時、シエルは自分のことをとうとう人でなしだなと嗤った。彼女を想って引き返すなんて選択肢はなかった。

「それでねシエル、その時お兄様ったら――」
「困った人だな」
「ねえ、お兄様ったら私のこととなるとちょっと冷静さに欠けるっていうか」
「そう思うならあまり無茶はしない方が良い」

 数週間ぶりにファントムハイヴ家を訪れたエリザベスのお喋りは留まることを知らず、会えない間に自分が見聞きしたものを全てシエルにも共有して欲しいと言わんばかりだった。手にした紅茶のカップは一度も彼女の口まで運ばれていない。それだけ喋れば喉が渇きそうなものを、と呆れてしまうくらいに彼女は捲し立てている。それを押し付けとは呼ばず、恋と呼べるのが女の子だ。生憎、シエルにはエリザベスを喜ばせたくとも提供できる話題がない。こうして彼女を屋敷に招けるようになる前は女王の番犬として一仕事終えた訳だが、お茶の席に持ち出せるような話題であるはずがない。
 シエルは努めて疲労の色を浮かべないよう心を砕いたし、出来るだけ要所々々で相槌を打つようにしていた。漏れなく聞き拾うには、彼女の日常は鮮やか過ぎた。極彩色のようにめまぐるしく転がる話題と、彼女の感情。ぴくりとも動けず寄り添えないシエルの理性は心の底から彼女の話に笑ってやることが出来ない。自分にも似たような経験があるよと言えたはずの日々は、シエルの記憶の中で一度焼け落ちて、死んだ。優しい父と美しい母。賢い愛犬と優秀な使用人。シエルを囲んでいた柔らかく愛おしい人々と空間も同じ場所に立つ屋敷に身を置いて一向に過ぎらない。いるのは卑しい猟犬と出来の悪い使用人。それでも女王からの手紙さえ届かなければ平穏を保っていられる自分にシエルは時々首を傾げてしまう。人間は慣れる。それは確かにそうだろうけれども。ならば、何故。
 エリザベスが自分に差し出すもの、向けるもの全部にどうして自分は慣れることが出来ないのだろう。応えることが出来ないというシエルの立場はもう確定している。このまま自分が抱える暗闇をエリザベスの前でばらまけないだなんて如何にも相手を思いやっているかのような理由で真実を隠していては確実に彼女を傷付けるだろう。エリザベスが、シエルの傍に侍っているのを孤独から守ってくれていると喜んでいる執事は、いずれシエルを喰らうだろう。契約は果たされることを前提に成立するのだから。
 魂が喰われるということを、シエルは殺されることと同義に捉えている。恐らく、間違ってはいないだろう。そしてそれを、どうにか逃れようという気も全く起きない。死への恐怖よりも根深く宿った怒りと屈辱をシエルは捨てられない。捨ててしまえば生きられない。汚された自分を許せない。どれだけエリザベスが優しい言葉と眼差しで受け入れてくれたとしても。

「そうだシエル、月末は暇?」
「どうかな。先立った予定はないけど……女王陛下次第かな、最近結構仕事が立て続けに入ったし」
「――そう。ねえ、もし暇だったら一緒に街へ出掛けましょ?」
「買い物か?」
「うん!お父様が新しいドレスを買ってくれたの!昨日月末には完成するって連絡が入ったから仕立屋まで受け取りに行こうと思って」
「構わない。その、仕事が入らなければとしか言えないんだが」
「全然!そうだ、受け取ったら家に寄ってね、夜会用のドレスなんだけど着て見せるから感想を頂戴!」
「いや…それなら夜会で会った時に見せてくれればそれで――」
「でもシエル必要最低限の夜会しか参加しないじゃない!」
 シエルの言葉を遮って、エリザベスは頬を膨らませながら不満げな視線を彼に向ける。「女王の番犬」「悪の貴族」という代々継がれてきたファントムハイヴの異名とその格式ある一族の当主として立つにはどう見ても幼いシエルは、鬱陶しい視線や口汚い浅はかな言葉の応酬の中に身を置くのが面倒だと積極的に貴族同士の社交場に姿を現さない。必要があれば重い腰を上げるし自ら主宰して夜会を開くだけの知識と礼節は持ち合わせているが、そういったものを誇示して貴族社会の中で幅を利かそうという欲はない。興味がないといった方が良いかもしれない。シエルは女王の番犬としての役目を果たしながら、嘗て自分を貶めた人間を見つけ出して、狩ることが出来ればそれだけで生きるということ全ての片が付くのだから。
 だから、シエルはエリザベスに自分から離れるという選択肢を用意しておいて欲しいのに。復讐を遂げられなければ、平穏とは無縁の生活から抜け出せない。エリザベスと幸せになるという道は存在しない。そして復讐を遂げるということはシエルの終わり。どう足掻いたって、シエルはエリザベスを置いていく。明確な愛情も、形式ばかりの婚姻関係も結ばない内から彼女はシエルの元にいる。空白の一ヶ月を境に生じた見えない壁を、薄々と感じ取りながら。シエルの所為で嫌悪した剣という強さを、シエルの為に振るうことを選んだ。報いるには、シエルはもっと誠実でなければならなかった。嘗ては自身も疑わなかった、エリザベスと夫婦になるという未来を、もう訪れないと知りながら時折もしもの夢想に耽るくらいの痛みを負わなければならなかった。何もせずとも彼女は自分を追いかける。そんな傲慢と怠惰はきっとこの先もエリザベスによって許されるだろう。だって彼女はシエルに恋をしているのだ。
 ――もう良いんだ。
 一途過ぎる想いが怖くて泣きたくなる。それでも、枯れてしまった涙は胸の内に苦々しさを広げるだけで目頭を熱くしたりはしない。本当に、人でなし。
 寄り添ってくれることが嬉しかった。ファントムハイヴの外側とシエルを繋ぐ数少ない存在。愛しくないといったら嘘になる。だけどこの先を共に歩むには、その感情が一番邪魔になることをシエルは知っている。だからいつか、シエルは己の意思でエリザベスを傷付けなければならない。死という覆せない痛みを、愛しさという相乗効果で高めてしまうことのないように。シエルの命が尽きるよりも先に、エリザベスの恋心を殺してやらなければならないのだ。
 だからいつか、シエルはエリザベスに告げるだろう。自分が子どものまま死んでいくことになったとしても、彼女までがそこで停滞してしまわないように。
 ――ねえリジー、もう良いから。ヒールの高い靴を履いたって、剣なんて捨てたって良いんだ。
 それでも誤解しないで欲しいのは、彼女の背が自分より高く立って、絶望的な局面を彼女の剣技で乗り切れなくたって、シエル・ファントムハイヴはエリザベス・ミッドフォードのことがとても大切だったということ。だけど出来るなら、いつかは自分のことなどきれいさっぱり忘れて幸せに生きて欲しいと思うのは、シエルの独りよがりな我儘だ。
 エリザベスはまだ忙しなく喋り続けている。カップの中の紅茶は冷めてしまっているだろう。もう少ししたらセバスチャンに淹れ直させなければなるまい。そう決めて、シエルはエリザベスの話が途切れるのを待つことにした。



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言葉の止め時さがしてる
Title by『ハルシアン』




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