※高校生



 空を見上げる彼女の口がぽかんと無意識に開かれているのを見て間抜けだなあと思う。それはきっと、褒め言葉ではない。しかしさくららしいなあと思う。それはきっと、褒め言葉だ。
 ――矛盾してない?
 いつだったか、同じような場面、状況で大野は思ったことをそのまま言葉にしてさくら本人に伝えたことがある。その時、彼女は怒らなかったし喜びもしなかった。大野が自分に向けて発した言葉の意味、乗せた感情。それよりもただ単語の意味のちぐはぐさが耳に障り気にかかっただけだった。
 そういう、所謂実のない会話というものが、彼女との会話に於いては大半だということを大野は気付いていた。学生の、子どもの会話、或いは大人の会話だって実のあるものばかりでないことは知っている。会話は知識や情報の交換手段ではなくコミュニケーションだ。人と付き合っていく為に必要で、場の空気を保たせる為に必要で、兎にも角にも社会の中で生きていく為に必要なものだ。それはわかる。だから大野の言う、さくらとの会話に実がないというのは、彼女には自分の意図することが全く通じない以前に届いていないということだった。
 極端な話、大野が今此処でさくらに向かって「好きだ」と言ったとしよう。彼女はそれを冗談だと流したり、ごめんねと拒んだり、嬉しいと受け止めたりはしない。好きの二文字に乗せた好きという途方もない気持ちはさくらには届かない。大野の言葉は、さくらももこには通じない。そしてこれが如何に厄介な状況かを、大野は盛大な溜息と共に誰かに吐き出したかった。だけどそれは、大野の弱い部分や、抱くことは自然でも他人の前に晒け出すにはそれなりの覚悟と相手への信頼が必要となることだったから、彼はこれまで誰にも内なる想いを吐き出したことがない。いっそ人類に校舎の壁にでも悩みを打ち明ける習慣があったら良いのにと思う。当たり前のことをするだけで目撃されても奇異とは全く映らない環境。自分の求めるものが集団の意から離れて個に寄りすぎるとき、大野はそんな風に思う。信頼に値する人間はそれなりにいる。一番に信頼する人間だって迷わず思い浮かべられるし、その気になれば打ち明けられてしまうであろうことなのかもしれない。だが大野はそれをしない。彼が最も信頼する人物は、恋愛方面に於いて全くと言っていいほど頼りにならない。寧ろ彼の方が相談相手を求めていることだろう。その点、大野は自分が恋愛に於いて杉山からアテにされていないことをさも当然の事実として受け入れている。
 だって、自分の恋愛だってままならないというのに、どうして他人の恋の世話など焼けるというのだろう。
 要するに、大野ケンイチはさくらももこに恋をしている。そしてその恋が実る確率は、恐らく限りなく低い。
 そのことを大野は知っている。受け入れる覚悟はまだ、ない。



 ――さくらももこはファンタジーの世界を生きているんじゃないか。
 以前一度だけ、さくらのいない場所で呟いたことがある。その呟きを聞いていたのは大野の親友である杉山と、さくらの親友である穂波だった。
「いくらさくらでもそりゃあ失礼だろ」
 そう、杉山は呆れたように言った。悪意を込めた訳ではないし、杉山もそんなことは理解している。ただ褒め言葉ではないぞと釘を差しているのだ。大野の突飛な形容が当てはまってしまう、杉山自身さくらにそんな印象を持っていたからかもしれない。
「いくらまるちゃんでもそんなことないよ。大丈夫、大野君自信持って」
 杉山の次に放たれた穂波の言葉に大野はぎょっと目を見開いた。杉山は、文脈の意図が読めずに首を傾げている。大野は曖昧な笑みで彼女の言葉に応じた。まさか、さくらももこを主語にした一文を、大野ケンイチが自虐的な意味合いを込めて発したことを見抜かれるとは思わなかった。さくらの親友である穂波が、字面通りに言葉を受け止めて何か自分にさくら攻略のヒントでも寄越してくれないかという打算は脆くも砕けたのだ。
 さくらももこはファンタジーの世界を生きているんじゃないか。大野がそんなことを思うのは、さくらが日頃周囲から浮いているだとか、妖精を見ただとか、そういう物語を読み耽ったり書き綴ったりしているだとか、そういう世界が好きだとかの発言をしたわけではない。大野の勝手な想像だが、そういうのはどちらかというとさくらではなく穂波が好みそうな類だ。
 ただ単に、自分とさくらの世界が余りに交わらず距離を感じてしまうから、そもそも触れることすら出来ない別世界に彼女はいるんじゃないかと思い込んでしまいたかった。勿論、人それぞれ自分の世界を持っている。記憶や価値観、性格や人間性に反映されるそれらが他人に対し完全な理解や許容を受けられるとは思っていない。不可能だ。けれど過剰にズレ込んだ世界観は人間関係の構築を困難にする。大人になれば仕事上の付き合いだとかで、個人の心象よりも立場が優先される場合が多く、一定の境界線を引きながらそれなりの関係を築くこともあるだろう。小学生くらいまでの幼さなら、周囲の雰囲気に流されることに抵抗なくいつの間にか出来あがる友だち、人気者、その他をクラスメイトとして深浅の違いはあれど広い交友関係を持つこともあるかもしれない。だが中学、高校に進学すると大半の人間は一定の輪の中でしか生きられない。小学生の頃、悪ガキやガキ大将と呼ばれながらその運動神経やリーダーシップっでクラスメイトから情景の眼差しを向けられていた大野だってそれは同じことだった。高校で所属しているサッカー部の数人と、同じくサッカー部で小学校来の腐れ縁兼親友の杉山と、これまた同じく小学校から高校まで一緒の腐れ縁数名が大野の作る狭い世界だった。そしてその世界の中に、大野としては当然さくらももこを配置しているのだけれど、彼女の方ではどうか、大野が存在しているかどうかが非常に怪しい。
 構成員は違っても、さくらの形成する世界は大野と大差ない。親友と部活仲間と腐れ縁。ただ人柄のおおらかさに起因して顔見知りは多い。また彼女を邪険に扱う人間に、大野は遭遇したことがない。呆れながら、怠惰とずぼら、自由気儘なさくらを見守る人間が大半だった。そしてきっと、さくらは自分をこの大半の中に見ているのだろう。付き合いの長さが、時折当たり障りのない会話を導くけれど、それだけ。
 ――そりゃあ度胸さえあれば毎日だって話しかけるさ。
 大野の言い分は情けない。
 さくら曰わく、大野な年々別世界の人間に生まれ変わっていくのだそうだ。何だそれ、と顔を顰めるよりも先にさくらが指折り理由を挙げていく。容姿、成績、運動、人望エトセトラ。「ラブレター貰ったんだって?」尋ねて、ひひひ、と笑う彼女は品はないけれど変わらない。大野だって、さほど変わっていないのに。
 確かに大野は異性からも同性からもその容姿を褒められる。さくらは不細工では断じてないが人目を引くほどではない。成績も、大野はそこそこ優秀だがさくらは毎度テスト前に慌てふためいている。運動も大野はサッカー部に所属しているだけあって得意だが、さくらは短距離以外はぱっとしない。人望は、クラス内を仕切ることはしないが部活ではそれなりに先輩からも後輩からも信頼されているつもりだがさくらはどちらかというと面倒を見てもらう側だ。悉く自分と正反対の大野を羨むでもなく別世界の人間と称したさくらに、彼は俺はお前こそ別世界の人間だと思うよと言い返したかった。外れているのは、俺ではなくさくらだと。嫌悪ではなく寂しさで。それから、それでも俺はお前が好きだよとも。
 結局、言えなかったけれど。



 空を見上げているさくらの手にはスケッチブック。美術部の活動だろう。開かれていないそれを見て、大野は何となく彼女はこれから帰宅する所だろうかと予想する。基本的に、吹奏楽部以外の文化部は活動が部員の自主性に任されてしまうから帰宅時間もまちまちだ。本人のやる気次第。
 大野は時計を探したが見当たらない。校舎の丸時計は角度的に見えなかった。サッカー部の休憩中、水道に寄った帰り。さくらはスケッチブックを持ったまま空を見上げている。大野は少しだけ迷ったけれど、さくらに声を掛けた。
「さくら、口開いてる。間抜けだぞ」
「――ん?ああ大野君じゃんやっほー」
「やっほーじゃねえよ。ひとりでボケッとしながら口半開きとか間抜け面晒すなよ。女だろ、仮にも」
「仮に所か正式に女だよ。でもまあ良いじゃん、まる子なんだし」
「…あのなあ」
 あっけらかんと大野の注意を笑い飛ばすさくらは、この手の叱責に慣れているのだろう。その上で自分にはそんなしとやかさを求めてくれるなと、出来るだけ相手を刺激しないようかわしている。
 さくらが「あれ」と空を指差す。追えば、雲がじりじりと流れながら浮かんでいる。彼女は一言、「魚みたいで、美味しそう」と洩らした。まさか、それで口が半開きになっていたのか高校生にもなってと絶句する大野を横目にさくらは今日の夕飯が魚料理だったら良いのにと顔を綻ばせている。
「ああそうだ大野君」
「…何」
「一緒に帰ろう」
「は?」
「聞いたよー。まる子をファンタジーの住人に思ってるって」
「…穂波?」
「んーん、杉山君」
「あの野郎…」
「失礼だよね、いくら地に足のついてないまる子でもファンタジーないとか…」
「それは杉山だぞ?」
「わかってるって」
「…で、一緒に帰るってことは何か話でもあんの」
 そのことでと続くはずだった大野の声を遮ってさくらは「違うよ」と言った。ただ、帰ろうとした場所に大野が現れて、久しぶりにどうかなと思ったのだと。予想外の申し出は嬉しかったが生憎大野は休憩中なだけで放課ではない。今だって手にしているのはタオルだけだ。
「だからまる子待ってるよ」
「…良いのか」
「うん、此処でその辺スケッチしてるから終わったら呼んで」
「ああ、」
「でももし女の子と予定があったらそっち優先していいけどね」
「ねーよ!」
 つい反射で声を荒げた大野にさくらはひひひと笑う。昔からの品がない笑い方。
 もう約束が纏まったと判断したのか、さくらはそのままスケッチブックを開き作業に入ってしまう。大野も彼女のからかいをこれ以上追及する気になれず、また後でなと言い残してグラウンドに足を向ける。彼の言葉に右手だけを上げて応じたさくらに、右折信号で道を譲ってくれた車に手を挙げて礼を示す父親を思い出してしまった。年頃の女子の仕草ではない。
 それでも大野は恋の欲目を自覚した上でさくらはそういう所が魅力になる人間だと思っている。惰性が純粋さに見えるようじゃお終いだろうが構わない。だって大野はさくらが好きなのだ。趣味が悪いのかもしれない。それでも一緒に帰れるだけでだらしなく緩む頬が証拠でなければ何なのだ。
 さくらももこはファンタジーの世界を生きているんじゃないか。そうだとしても、いつも通り、それがさくらももこだ。空を見上げ雲の形を読み取り美味しそうだなんて口を開けてしまう彼女。
 たとえ気持ちが届かなくったって、大野けんいちはさくらももこが好きなのだ。ある日ひょっこり二つの世界が交信可能になる日を夢見て、大野はさくらを想っている。




―――――――――――

言えなかったこと、言うつもりもないこと、きみが好きだってこと。
Title by『にやり』



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -