※捏造


 佐藤が長らくアルバイトとして務め上げたワグナリアを辞めることになったのは大学四年の春頃のことで、単に時期的に辞めますと言えばまあこんなご時世だし、寧ろ遅いくらいだよねえと言われても不思議ではないことだった。日本の就職活動の早期開始は全く以て理解しがたい。昨今では国を挙げて見直し等されていてもやはりスタートダッシュで良い出だしを切ろうと目論む学生も、少子化を謳われながらもそこそこの人数を集められる大企業などは大学を出れば就職する物だという社会の流れを微妙なエスカレーター気分で眺めながら沈んでいる人間よりも意欲を持って浮かび上がってくる人間を掬い上げたいものだろう。話が逸れた。
 ワグナリアの店長からして就活なんてこなしていないだろうなという佐藤の偏見と、それ以前に自分の年齢と学年、それに即して考えれば察しが付く行動の流れを彼女は意図して察しようとしない。他人と言うだけで、彼女は割と大勢を興味の範囲外に追いやっているので。
 兎に角、上がそんな風だったので、佐藤も引き留められるとは思っておらず仕方ないよねと納得してもらえるような嘘を拵える必要もなく一言「出張することになったんで辞めます」と告げれば店長である杏子はいつものだるそうな顔を彼に向けてから少しだけ眉を寄せた。そして時期を問い、佐藤が答えれば「そうか」と頷くだけだった。だから佐藤はそのまま仕事に戻った。同じく厨房勤務の相馬が残念そうな顔で隣を陣取ってくる。非常に鬱陶しいし、「辞めちゃうんだ」という言葉には俺はお前にそのことを打ち明けていないのだがなと言う突っ込みを入れるのは奴を喜ばせるだけな気がして黙っていた。普段から割と寡黙キャラで通っていると黙り込んでも他人に詮索される必要がないのが数少ない利点だ。

「佐藤君、佐藤君辞めちゃうって本当!?」
「――ああ」
「何で?杏子さんは出張って言ってたけど佐藤君って大学生よね?出張って何なの?こんな時期に出張って大丈夫なの?」
「――ああ」

 我ながら素っ気なく返事のバリエーションがないなと呆れてしまう。その雰囲気を根掘り葉掘り尋ねようとする自分への不快と勘違いした八千代は佐藤の退職に青くしていた顔を更に青くして縮こまってしまった。直ぐに八千代に非はないと説明したけれど、理解して貰えたかは甚だ怪しかった。長年一緒にいても、佐藤の口下手も八千代の天然も相変わらず二人を微かな齟齬へと導かせて行く。憎たらしいなと零したのは佐藤で、それでもやはり今更だなと口元を綻ばせた佐藤を八千代は不思議そうに見つめているしか出来なかった。
 感情の高低に場にも人間にも作用されない佐藤の態度は無駄に親切な大人の目には物足りなさに失望し諦めてしまった可哀想な子どもとして映っていたらしい。成績だけは意味もなく優秀なラインをキープしていた。バイト、大学、バイト大学大学バイトといった感じの繰り返し。人付き合いは、義務にも等しくだが気が乗らなければあっさり拒否する自由さでしか佐藤の行動内に確保されなかった。自分も大概他人に興味がないのだなと思う。その分、内側に認めた人間には注意深く視線を送っていたけれど、わかりやすい優しさを差し出せることの方が稀だったから意味があったのかなかったのか。それは佐藤ではない誰かが決めることだった。

「出張と言っても教授の仲の良い教授の研究が俺の卒論のテーマと合致しているから出向して実験の手伝いをしてこないかという程度の話だ。期間は三カ月から六カ月。それでも就活となると微妙だが卒論締め切りには十分間に合うから問題ない」
「じゃあ、じゃあバイトだって辞めなくていいじゃない」
「その出先が東京じゃなかったら俺も検討したんだがな」
「東京…」
「東京だ」
「遠いわね」
「そうかもな」

 引き留められないと知った八千代は俯いて、訪れたことのない東京という場所との遠距離を自身の中で消火しようと必死の様だった。そういう優しい態度を取られると、見込みがあるかも何て自惚れてしまうからこうしてだらだらとワグナリアで働き続けてきたんだよなあと既に感慨深い気持ちに佐藤は襲われる。達成したことなど何一つないくせに、勝手に想うことで満足しているのだから。出会った頃に比べたら八千代にも随分懐かれた自覚はある。そのくせ満足して彼女を置き去りにして出ていくのか。勝手なことだ。佐藤とは違う、人見知り故内側にばかり目をやって、他人への興味を失くしていった子どものような大人。自分がいなくなっても、八千代を愛してくれる人間はいるのだ。店長とか、件の双子とか。彼女の内側にいて、彼女を内側に囲っている彼ら。幸せだろう。そこに自分はいなくとも。一抹の寂しさは拭えないとしてもだ。
 そんな風に、一人現状に見切りをつけてワグナリアを去ろうとしている佐藤に、「でも佐藤さん逃げられないと思いますよ。少なくともチーフからは」なんて不吉な言葉を寄越したのは得体のしれない情報収集から予測を立ててそれ通りに事が運ぶのを面白がる相馬ではなく。自身の性癖を除けば至極真っ当であったばっかりに騒動に巻き込まれ続けている小鳥遊だった。訝しいと表情で語った佐藤に、小鳥遊は俺これから仕事なんでと踵を返してしまった。彼の発言にどんな真意が含まれていたのか、佐藤はワグナリアを辞めた今でも知ることは出来ないでいる。


 知ることは出来ないでいるものの、佐藤はやはりあの時しっかり問い詰めておけばよかったと後悔している。段々と理解が及ぶようになっている気がするが、それでもまだ色々はっきりとしない部分が多すぎる。
 振り返って言えば、佐藤がワグナリアを辞める当日、轟八千代の大号泣といったら凄かった。他の面子も佐藤との別れを惜しむよりも八千代をあやすことに専念しなければならず、営業中はまだ物憂げに時折涙を浮かべたり寂しそうに俯くだけだったというのに閉店時刻を迎え最後の客を見送った途端わんわん声を上げて泣き出してしまった八千代にその場にいた面子は勿論佐藤だって相当驚いた。
 杏子が声を掛けても撫でても泣きやまず佐藤にひっついたまま離れない。普段ならば清掃も着替えも終え帰宅する時間になっても誰一人ホールを後にすることが出来ないでいた。小鳥遊や伊波、種島あたりは仕方ないなあと素直に途方に暮れていたのだけれど、杏子だけは八千代を泣かせているのが佐藤なのだと理解が及ぶとさっさと何とかしろと無言の圧力をかけてきたものだから、佐藤も思わず「明日も来るから」と告げてしまった。これが最後のお別れなんかじゃないのだと昏々と言い聞かせた。そして漸く、「絶対よ、絶対に明日も来てね」という八千代の言葉を引き出して佐藤は頷いた。勿論、客としてではあるけれど。
 それから佐藤が東京に向かうまでの毎日をワグナリアで過ごすことになってしまったのは流石の元同僚たちもお気の毒様と言う他なかった。律儀に注文まで毎度してくれるものだから、ついついお財布の中を心配してしまう。しかしそんな中でも相馬は面白そうに笑っていたし、小鳥遊はやっぱりなあと同情を含んだ目で佐藤の方を見ていた。
 そしてここ数年来の佐藤の悩みの中枢でもあった元凶の轟八千代は嬉しそうに彼から注文を取っている。こんな二人の光景も、このところ連日見ることのできる光景だ。顔を合わせられることに安堵して、にこにこ微笑んでいる八千代に佐藤は漠然と考える。東京へ行ってワグナリアに来られなくなったら、また八千代はあの日のようにぼろぼろ涙を零してしまうのだろうかとその根底が友情だけなら、残す言葉は殆どない。「元気でな」とか「店長がいるだろ」とか。でももしそれ以外の、憶病だった佐藤に都合の良い何かが含まれているのならば。もっと大切な言葉を残して行かなければならないのだろう。長くても六カ月。忙しなく過ごせばあっという間かもしれない。それでも。
 もしも佐藤の告げた言葉に、八千代が戸惑うことなく頷いてくれたのならば、その時は東京に向かう前に根を詰めてでも彼女の携帯操作の技術を向上させなければならないのだろう。


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比例しない僕ら
Title by『Largo』




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