あまり現在の自分が好きではないからだろう。 一頁一頁と物語を読み進めて行くたびに、その中の女の子に理想を投影しては羨望の吐息を洩らさずにはいられない。高橋の性格上、登場人物が不幸だけを抱えて終わる後味の悪い話を好んで読むことはない。だから尚更、自分もこの物語のヒロインのようにあれたらいいのにと、無駄な空想に耽るのだ。 もう少し性格が明るかったら。もう少し行動的だったら。もう少しだけ瞳が大きかったら。もう少しだけ胸が大きかったら。もう少し自分に優しい場所で生れていたら。もう少し自分に優しい人たちと出会えていたら。そんなもしもを全て積み上げたら、きっと今よりずっと沢山の人に愛される自分が出来上がるのだろうだなんて。何よりも、自分が自分を愛してあげられるのだろうなんて思っては、現実の自分との落差に落ち込んで、読みかけの本を閉じてしまうのだ。 「これ、前の巻読んでませんでしたっけ」 「――へっ?何?」 「これ、このシリーズ、高橋さん読んでましたよね」 「え、あ、本当だ。新刊出てたんだ…」 帰り道の途中立ち寄った本屋で新刊コーナーに差し掛かった折、悠太が一冊の本を指差した。こうして一緒に帰ることは初めてではないというのに未だに緊張が解けない高橋は、彼が自分に話しかけたことを理解するのと、彼の言葉の内容を理解するのを別途に行うことになり、結果混乱して悠太にもう一度同じことを言わせてしまう。そんなことを面倒に思う悠太ではないけれど、高橋は申し訳なさに心の中でがくりと項垂れる。 今度は、新刊コーナーに平積みされている一番上の一冊を手に取って、違いましたっけと尋ねる。尋ねているのだけれど、悠太の語尾は全く疑問文としてのイントネーションの変化を帯びておらず、暗にそれだけ高橋のことを見て知っているという自信が表れているのだが、高橋は勿論悠太ですらそんなことには気付いていなかった。 悠太が手にしている本は、既に何冊かシリーズとして刊行されているもので、確かに以前高橋が読んでいたものの続巻だった。新刊が出ているとは知らなかったので、今日その本を買う予定もなかった。だがこうして目の前に差し出されて、悠太の言葉を肯定した今となっては買うべきなのだろうか。また今度の一言が、悠太が本を差し出しているという一点の所為でなかなか言い出せない高橋は、場が膠着してしまうことも気不味いと判断し、のろのろと彼が手にしている本を受け取ろうと手を伸ばす。すると、悠太は無言で本を持っている手を引いた。当然、高橋の伸ばした手は虚しく空を彷徨った。 「……悠太君?」 「…いや、今日の目当てはこれじゃないみたいですし…。それにこれ、一番上の奴だし…」 「え…と?」 「もうちょっと見て回ってからでも良いんじゃないかって、感じです」 「あ、ああ、うん、そうだね!」 二人の関係を知らない人間がこの一連のやり取りを観察していたのなら、さぞ窮屈で、何故わざわざ一緒に本屋に来たりしたのだと思ったことだろう。それぐらい、二人のいつも通りは傍から見ているとぎこちなくて、じれったい。 悠太と高橋はれっきとした恋人同士だった。ただ、他人の外側に気遣って内側に踏み込むことに消極的な悠太と、徹底的な自己嫌悪による内向的な性格を有する高橋とでは、付き合うという現段階に漕ぎ着けているだけでも奇跡に近い進歩だった。好きという感情は認めるけれど、それがどこに向かうかは不明確でならば慎重に見極めなければならないと二人して脚を止めていてはいつまで経っても何も変わらないというのに。 悠太が手にしていた本の、自分が持っている本の内容を思い出す。確かあれは、一度読んだきり本棚に並べられている。恋愛小説で、シリーズになるくらいだから、それはもう様々な紆余曲折を経てもなお意中の相手とは結ばれないというもどかしい作品である。しかも、読み手には明らかにヒロインとその相手は両想いであるにも拘わらず。 高橋がそのシリーズを買い続けていたのは、内容云々よりも文体が読みやすくて好ましかったからだ。作者買いとも言えるだろう。ただ、物語を読み進めて行く内にいくら文体が好きでも内容に感情を動かせなくては面白くないと、興味自体が失せてしまった。 原因は、ヒロイン像がやけに魅力的だったから。主人公なのだから、それ相応の魅力を持っていてしかるべきだとは理解している。ただ、自分も恋をして、恋人のいる身としては、こんな恋にひたむきで、何度擦れ違ってもくじけずに臆することもなく突き進む女の子なんている訳ないと頭ごなしに否定したくもなってしまうのだ。自分だったら。そんな投影をする回数が増えたのは、きっと悠太と付き合いだしてからなのだ。自分だったら、悠太と何度も擦れ違ったりはしたくない。悠太が他の女の子と楽しげに話して、好きな人なんていないと言われて泣いたりなんてしたくない。山場なんていらない。ただ穏やかに似たような毎日でも構わないからずっとこの関係を維持していたい。 どうして女の子は、恋人と喧嘩なんてしたくもないくせに。他者の介入なんて一切望まないくせに。嫉妬なんて見苦しいと言葉だけは寛容を気取って見せるくせに。こんな恋愛小説を楽しげに娯楽として選ぶのだろう。 気付けば、高橋は先程悠太が差し出していた本を手に持っていた。新刊特有の帯に謳われた煽り文句は、相変わらずヒロインの前に障害が現れたことを示している。自分だったら、乗り越えられないような、そんな壁。 「それ、買うんですか?」 「――!えっと…」 「前の話、面白くなかったですか」 「うん…あんまり感情移入出来なくて」 「ああ、そういうのって飽きちゃいますよね」 高橋が言いたかった答えを導くような疑問をくれる悠太に、偶然だと思いながらも、ひょっとしたらなんて淡い希望が彼女を焦らす。 あまり自分のことは好きではないけれど。浅羽悠太というひとりの人間に愛された自分のことだけは、誇っていいのではないかと。もう少し性格が明るかったら。もう少し行動的だったら。もう少しだけ瞳が大きかったら。もう少しだけ胸が大きかったら。もう少し自分に優しい場所で生れていたら。もう少し自分に優しい人たちと出会えていたら。そんな沢山のもう少しやもしもを抱く程に現状と自分を疎んでいた筈なのに。今この場所に生れて今この場所にいる在りのまま自分を。自分だから悠太は好いてくれたのではないかと思ったら、まるで自分が世界で一番幸せなヒロインみたいだった。 「高橋さん?」 「はい!?」 「ボーっとしてたけど、どうかしました?」 「え…と、悠太君と出会えて良かったなーって、なんか急に思ってました…」 「………」 「ご、ごめんね!変なこと言って!」 「いえ…嬉しいので、ありがとうございます」 「ど…どういたしまして?」 「俺も、高橋さんに会えて良かった」 「…ありがとうございます」 「どういたしまして」 照れ笑いを浮かべながら、初い恋人らしい淡い空気を纏って見つめ合う悠太と高橋は、たまには恥ずかしい本音も言葉にしてみるのも幸せなのかもしれないと流れる空気を心地よく享受していた。本屋の新刊コーナーで。それを邪魔だと抗議する人間もいないのは果たして幸いなのかどうか。それすらも問えないけれど、高橋の胸中はこの店内にある本のどんな魅力的なヒロインよりも満たされているのだから、無粋な言葉など投げるべきではないのだろう。添えるなら、例えばめでたしめでたしだとか、そんな言葉が相応しい。 ―――――――――― もしも違う時間、違う場所で生まれていたら Title by 咲織様/15万打企画 |