夢を見た。それこそ、目を開いて世界を認識した途端にああこれは夢だと気付いてしまうような、ありえない、奇跡の様な夢だった。
 ファンタジーのような世界に迷い込んだ訳ではない。寧ろ何処までも現実染みていると切嗣は思う。割と大きい、近現代らしい設計の駅前に切嗣は立っていた。時計は午前十時を指す少し手前。休日であるのか、立ち尽くす彼の前を行き交う人々は親子であったり恋人同士で会ったりと楽しそうに微笑んでいる人間ばかりで、平日特有の会社員らしい出で立ちの人間は少なかった。この往来を行き来する誰もが魔術や銃や戦争など知りもせず平穏に生を謳歌している。気楽なものだと溜息を吐きかけた所で、切嗣は何故自分がこれらを知り尽くしているかのように考えたのかが腑に落ちずに目を瞬かせた。気紛れだろうかと上着の内ポケットから煙草を取り出して一本口にくわえて火を着けようとした瞬間、少女の様な声に名前を呼ばれた。

「切嗣!待たせちゃってごめんなさい!」
「――アイリ、」
「服装がなかなか決まらなくてね、やっとこれって決めたら今度はそれに合う靴がまたなかなか見つからなかったのよ!玄関にも時計を置くべきなのね…。あら?切嗣、貴方煙草なんて吸うの?」
「……?いや、もう大分前に止めたよ」
「ならその手にあるのは何?」
「…なんだろう」
「いやだ、切嗣ったら、しっかりして頂戴」

 切嗣のちぐはぐな言動に、アイリスフィールは物珍しさか、初めて見る彼の意外に抜けた一面に可愛らしいとでも思っているのかくすくすと笑いだす。口元にそっと添えられた指は白く、とても綺麗だった。切嗣はそれほど笑うようなことでもないだろうと思いながらも、吸おうと手にしたまま宙ぶらりんになっていた煙草を上着の内ポケットに乱雑に突っ込んだ。そして未だに笑っているアイリスフィールの手を取って人ごみに紛れるようにして歩きだす。普通なら浮いてしまうようなアイリスフィールの美しい銀髪も、誰一人気に留めることなく群衆の中に溶け込んでいるらしく、それがまた切嗣に言いようのない違和感を与える。
――これは夢だ。
 そう自覚するのに時間は掛からない。既に妻である筈の彼女と街中で待ち合わせしていること以前に、街中に丸腰で自分が立っていた時点でこれは夢なのだ。きっと、ありふれた普通の恋人同士として、人殺しである切嗣と、ホムンクルスであるアイリスフィールが過ごすことのできる、憧れや願うことすら眼中になかった奇跡。
 果たして、この夢の中の自分たちが夫婦であるのかすら切嗣には判然としない。シチュエーションから察するならば恋人同士というのが妥当だとは思う。思えばアインツベルンに招かれて、アイリスフィールと夫婦になって、イリヤスフィールが産まれて。いっぱしの男女が踏んでいく流れをそれなりに順当に踏んできたかのように思えるが、実際は色々な過程をすっ飛ばして来たのだろう。お互いを意識して恋に落ちて恋人として過ごした時間などある筈もなく、何も知らないアイリスフィールにとって選択肢など無いに等しかったのだ。それでも、何も知らない純真無垢な彼女であったからこそ切嗣を愛せたのだろうし、切嗣もまた彼女を愛した。そこに偽りが無ければ良いと、二人して今日まで信じ込んできた。確定事項として迫りくる別れが存在しているのに、その別れを辛くさせるようなことを何故と問いただす人間など二人の傍にはいなかった。
 今こうして手を繋いでいるアイリスフィールは、もう何度もこうした街並みの中を歩いているとでもいうのか、物珍しさに視線を彷徨わせることなく前を向いて、時折隣りの切嗣を見上げて彼の腕にもたれたり、繋いだ手の握りを指を絡めたいと要求してくるだけだ。それは、切嗣の知るアイリスフィールではないようにも思えたけれど、決して叶えてやれないと思っていた数々をこうして叶えてやれるならば夢でも何でも構わないと、切嗣ははいはいと彼女のささやかな願いを聞き入れた。

「ねえ切嗣、今日観ると言っていた映画まではまだ時間はある?」
「ああ、あるよ。先に何所か行きたい所でもあるのかい?」
「服!」
「……それは後に回した方が良いだろうね」
「…やっぱり?」
「うん。それより少し早いけど何か食べておこうか」
「そうね、そうしましょう」

 映画かあ、と切嗣は頭の片隅で思う。片隅というよりも、夢を見ている切嗣と、夢の中で活動している切嗣の思考回路は別物であるかのようにちぐはぐに思考を重ねている。映画までの時間はまだあるよと淀みなく答えながら、ショッピングなどしたことのないアイリスフィールが衣服の買い物に費やす時間の長さを身を以て知っているかのようには、本来の切嗣には到底振る舞えないことだ。

「切嗣、」
「ん?」
「夢みたいね」
「―――、」
「本当、夢みたい」

 繋いでいた手を解いて、切嗣の腕に自分のそれを絡ませて見上げてくるアイリスフィールは、その見た目は切嗣の記憶と寸分違わぬ彼女自身だった。仕草は、彼女らしくもあり、閉鎖的な環境に箱娘宜しく閉じ込められていた彼女には出来る筈もないことばかりだ。それでも良いと、思ったばかりなのに。
――夢みたいな夢よね、切嗣。
 自分を見上げる紅い瞳が幸せそうに切なげに揺れるのを、切嗣は見落とさない。もしかしたら、これは切嗣の夢ではなくアイリスフィールの夢なのかもしれない。あるいは、二人のどちらともの夢。
 何も知らないアイリスフィールに、切嗣は沢山のことを話して聞かせた。そして彼女はそれをとても興味深げに聞き入り、自分の目でも確かめたいと願った。それは、叶えてやれなかった。そのことが、もしも小さな悔恨となって二人の胸の隙間に残っていたのなら、こんな有り得もしない世界を夢に見たのも頷けるような気がした。
 もうそろそろ終わりが来る。切嗣も、アイリスフィールも、予感でも推測でもなく確定事項として認識している終わりの襲来が直ぐそこまで来ているのだ。迷いなど生まれる筈もないけれど、夢ならばせめて最後まで見させて欲しかった。結局、切嗣は夢の中でも大切な妻と外食することも買い物することも映画を観賞することも出来そうにない。
――醒める、
 切嗣はそう予感して、再びアイリスフィールの顔を見下ろす。そこには、先程切なげに瞳を揺らした名残など微塵も覗かせない、優しい頬笑みを湛えた彼女の顔があった。それはまるで、もう十分だと切嗣に頷いているようで、彼もまたアイリスフィールに微笑み返す。
 この夢が覚めて、眠りを終えても朝は来ない。まるで悪夢のように夜の帳を抜けても拭えない闇の中に二人はいるのだ。それを払うことが、永遠の別れだとしても構わない。切嗣とアイリスフィールが願う奇跡は、二人だけの幸せではないのだから。何より恋人同士ということは、この夢の中には二人の愛しい娘に会えない。
 未練など欠片もないと誰にでもなく呟いて、切嗣は目覚めに向かうように瞳を閉じた。


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こわれやすい明け方に
Title by『ダボスへ』




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