鼻を掠める食欲をそそる匂いは先程から十分なくらい届いているのに、食卓の上には一切のメニューが届いていない。まだかなとキッチンの入り口から中を覗き込めば、気配や視線に敏感なフランソワーズは直ぐに振り返って、ジョーに大人しくリビングで待っているように追い返す。
 客人としてもてなされるには随分と居馴れてしまった彼女の部屋のリビングで、今日の新聞を手にとって開く。生憎、フランス語はそれ程得意ではない。戦いのない間、ギルモア邸か母国のフランスに居を構えるフランソワーズを訪ねる機会が増えるにつれて細々と自力で学習して身に付けた僅かばかりの知識しかない。読み書きは不得手だが聞き取るだけならばもう普通にこなせるようになっている為、情報が欲しければテレビやラジオをつけた方が断然早いし確実だ。しかし時間潰しの為に無意味にそれらの電源を入れると、この部屋の主であるフランソワーズはあまり良い顔をしない。無駄と言われてしまえばその通りで、反論のしようもないのだけれど。此処には、ジョーの娯楽になるようなものが少なすぎるのだ。
 実際言葉にしてフランソワーズに伝えるのは、彼女の歓迎に文句を言っているみたいで、ジョーはいつもごめんと謝ってテレビとラジオの電源を切る。本棚にある文庫本は殆どがフランス語で書かれていて、ジョーには手が出せない。しかも並んでいるラインナップはバレリーナであった彼女の趣向が影響していて、古典作品が多かったりする。その中でも、悲恋系の話の数は群を抜いている。フランソワーズにタイトルだけ列挙して貰えば、学業や読書に入れ込んだことのないジョーでも朧気ながらに内容が浮かぶような有名どころも多い。恋人の部屋で悲恋で終わる物語を読むのは、どうにも気が乗らない。物語に自分たちのいつかを投影して想像してはらはらと涙を零すなんて真っ平だ。そもそも、悲恋で終わるつもりはないのだ。
 結局、ジョーは無意識に本棚に向けていた視線を再び手元の新聞に戻した。読み慣れない文字の羅列は、ジョーに曖昧な語句で以てしか情報を与えない。経済欄は数字が溢れていて割と分かり易いが興味と関わりがなかった。ユーロ安とかユーロ高とか、根の日本人の部分が抜け切れていないのだ。言い訳じみた言葉に、フランソワーズはそれならば円高円安に置き換えればいいのよともっともなことを以前言われたので、ジョーは彼女と経済の話はしないことにしている。
 ばさばさと、折り畳む際に難儀しそうなくらいに乱雑にページを捲り続けて、地元ニュースの欄に辿り着く。国一体で見れば重苦しいニュースばかりなのに、地方地方だけを切り取ればささやかで穏やかなニュースで溢れている。今年は気候が安定していたから収穫も無事終わったと喜んでいる農家の様子や、地元の富豪からの学校への備品寄付に湧いている子ども達の写真。

「平和なもんだな」
「何か言った?」

 ぽつりと呟いた言葉を拾ったらしいフランソワーズは、いつの間にかキッチンから出てリビングの食卓を布巾で拭いていた。全く気付かなかったことに、ジョーも自分は此処では幾分平和ボケしているのだと自覚する。恋人の自宅で気を張っても仕方ないといえばその通りだ。
 ジョーの手元にある新聞を見留めたフランソワーズははて、と首を傾げた。

「新聞、貴方読めないんじゃなかった?」
「部分的にだけならなんとか読めるよ」
「そう、何かあった?」
「…此処から二区隣のお婆さんが家に侵入して来た強盗を撃退して捕まえたとかで表彰されたらしいよ」
「聞いといてあれだけど、そのニュースがどうかしたの?」
「地元情報の方が身近かと思って」
「発生源がでしょ。見ず知らずのお婆ちゃんが表彰されることの何処が身近なの?」
「それもそうだね」

 お互いが下らないことだという結論に至り、そこで会話は途切れる。そしてフランソワーズはまだ料理の途中だとキッチンに引っ込んでしまう。
 耳を澄ますとヴオンヴオンとオーブンの音がする。最新型ではない家電のどこか古めかしさを伝えてくるこの音が、ジョーにはどうも落ち着かない。壊れてるんじゃないの。そう問えばフランソワーズは家事をしないから、そんな小さなコトが気に掛かるのだと笑った。確かに、ジョーは基本的に彼女に家事を任せているし、料理なんて特にだ。スムーズにキッチンで動き回り食事の準備をするフランソワーズを眺めながら、料理をするとはこういうことで、誰がやっても同じように動けるのだと思っていた時期がある。いざ一人で彼女が使っている流し台の前に立ち食材を手にしても次にどうしたら良いのか判らずに立ち尽くすしか出来なかったのは今では少しばかり恥ずかしい思い出だ。
 ――今日の昼食はキッシュか。
 先程よりも強く香り始めた匂いから、ジョーはまだ見ぬメニューを推察する。食べ飽きたということは断じてないけれど、食べ慣れてはいる味を思い浮かべて、前にキッシュを食べたのはいつだったかを思いだそうとする。何日か前の夕食だったとは思うのだけれどどうにも曖昧でハッキリしない。人間の記憶力なんてこんな物だ。サイボーグとはいえ、記憶力辺りに重点を置いて改造されてはいないのだから。

「ねえジョー、悪いんだけど、小皿とグラスをテーブルに出しておいて頂戴」
「わかった」

 言われた通りに腰を上げてキッチンにある食器棚へ向かう。オーブンはオレンジ色を灯しながら残り三分強を示していた。
 フランソワーズはジョーに背を向けたまま、ベーグルをバスケットに移していた。それを見たジョーは、自分の好きなピーナッツバターのジャムが切れていたことを思い出した。たしか、買い足してはいなかったはずだ。

「フランソワーズ、ピーナッツバターを買いに行かなきゃ」
「今からお昼ご飯よ?」
「勿論食べ終わってからだよ。夕飯の買い物に出た時の話」
「昼食前から気が早いわよ、ジョー」

 呆れた風に、フランソワーズは移し終えたベーグルをリビングのテーブルの方へ持って行く。彼女を追うようにリビングへ向かいながら、ジョーは仕方ないんだと内心で言い訳をする。
 フランソワーズはベーグルに何も付けずに食べるからかもしれないけれど、ジョーには何も付けずにベーグルだけを何個も食べることは味気なくて出来ないし、そもそもフランソワーズの料理だって美味しいけれど、どちらかといえば薄味だからつい調味料で少し濃い味に調整したくなるのだ。そろそろ米が食べたくなって来たとは言えずに、ジョーは良く行くスーパーの品揃えの悪さばかりを恨んでいる。
 だったら日本にある自分の家に帰れば良いのだとは知っているが当分実行に移すつもりはない。別に、フランス料理が嫌いな訳じゃない。
 オーブンの中にあるキッシュを眺める。フランソワーズがいて、彼女の手料理が食べられるなら、結局自分は場所もメニューもどうでも良いのかもしれない。新聞の一面を飾るような犯罪が起こる場所でだって、きっと。
 ジョーの思考を遮るようにオーブンのアラームが鳴った。その音がけたましくて、やはりこのオーブンは壊れてるんじゃないかと思わずにはいられない。
 それでも出来上がったキッシュは当たり前のように美味しかった。


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このままぬるい愛の中
Title by『Largo』



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