触れられたことは、たしかなかった気がする。たしか、と曖昧にぼかすのは、まるで自分が今までイザナとの出来事をいちいち事細かに記憶しているようで、腹立たしくて認めがたいからだ。
 木々の、ゼンの護衛としての立場は、臣下の中では輝かしいものかもしれないが、結局は臣下でしかない。王族は勿論、貴族にだって身分では到底及ばない。主を守る為だけに、その意に沿わぬ不埒な輩に上からものを言うことはあっても、それはあくまで主の地位が肝心なのである。クラリネスの第二王子、ゼン。木々の仕える主。そのゼンよりも尊重されて然るべき立ち位置。クラリネスの第一王子であるイザナを、木々は苦手としていた。
 生まれながらに王族だった人間は、よほどのことがなければ王族として生き、王族として死んでいく。ただ、自らの覚悟と振る舞い、後は人脈と少しの運で、その人生は良くも悪くも変化する。民の上に立ち支配し他者を踊らせるか。民からむしりとった税にすがり挙げ句都合よく踊るばかりの愚者となるか。すべては己次第だ。
 イザナは、その辺り優秀な男だった。人の上にしか立たない。そこに居座る為の振る舞いも、力の使い方も、他人の動かし方も熟知していた。どこで身につけたのかは分からない。だが彼には自分が王族たる自覚がしかとあった。それはか弱き民の為などではなく、彼自身の為だったのだろう。
 そんな、他人を下に敷いて生きるイザナは他人に冷たかったわけではない。しかし優しいわけでも、決してなかった。その人間が何を持っているか、イザナはそれを見極め、見抜き、選ぶ。財力や権力ではなく、人間の本質に絡みついた能力を測る。役立つならばそばに置くなり、適所に配置するなりの措置を取る。役に立たないならば、排除する。放置など、するはずがなかった。有益な人間を見出し懐かせるのは大切だ。だが無益な人間を廃し足手まといの芽を摘んでおくことも大切なのだから。

『周囲の者に主君の子なのだと認めさせねば己にも自覚など生まれない』

 木々の主であるゼンの胸を熱く打ったらしき言葉に、彼女はなんの感慨も抱かない。個人の価値観に、木々は干渉しない。納得し、だが受け入れず外縁をなぞるように分析しその人を解釈する。
 イザナは、いずれ王になる。木々はそれだけを、胸に刻み背を向けた。仕える主が違えば接触などそうそうあるものではない。あったとしても呼び出し等は顔馴染みのミツヒデに回される。
 臣下としての礼を欠くつもりはない。その気持ちだけで、イザナとの付き合いなどどうにでも流せると思っていた。
 だって彼は、生まれながらの、生粋の王族だったから。

「俺が君の前で不逞な輩に襲われたら、君はどうする?」
「……………?」
「身を挺して庇ってくれたりするのかな」
「…それが必要な場面ならば、そうします」

 いつものように弟に机仕事を二三押し付けようと彼の執務室にふらりとやってきたイザナは、不在のゼンの行き先になど興味を示さず手にしていた書類を既に紙束だらけの机の上に舞い散らないように落とした。
 部屋の中にひとり控えていた木々は、一言も発しなかった。ただ、一瞥と一礼を添えてイザナを迎えた。
 空席の椅子の主の行き先をあれこれ述べる気はない。イザナは探さないだろうし、ゼンはするべきことを蔑ろにして城を彷徨くうつけ者ではない。落ち着きがないところはまだ残っているが、ゼンはゼンでちゃんと王族としての自覚がある。自分の擁護など必要ない。何より、自分から口を開いて誰かにべらべらと語り掛けるのは苦手だった。
 僅かな思惑はあれども、さして珍しくもない木々の沈黙する姿に、イザナは先程の言葉を投げて寄越した。木々は、思ったままを答えた。
 イザナに対して、臣下としての礼を欠かなければいいと言った。だがそれは、あくまでゼンの護衛としてイザナの視界に映り込むだけの場合であった。
 こうして一対一で向かい合ってしまえば、臣下らしい振る舞った言動はなんの効力も持たない。ありのままを差し出して、あとの判断はイザナに任せるだけだ。尤も、イザナが自分にどのような判断を下したところで木々の何かが揺らぐこともない。木々は、イザナではなくゼンの護衛。彼に心から忠義を抱いてそばにいる。ゼンが自分を見限らない以上、木々は今いる場所を離れる気はない。
 恐らくは、戯れ程度の言の葉なのだろう。もしもで仮定された話題は、そんなこと絶対にありえないと否定することは出来なかった。だから、木々は意見を返した。ゼンの護衛である自分が主から離れイザナの側に侍るシチュエーションが、そうあることではないが。もし、ゼンやミツヒデも皆その場にいるのなら、誰より先にゼンがイザナを庇おうと動くだろう。そうすれば、また誰より先にミツヒデがゼンを庇おうと動くのだ。
 仮定に仮定を重ねながら、どうやら自分の出番は無さそうだと思う。実力差ではない。だが木々は、誰かを背に庇うよりも斬りかかってくる敵を斬り倒した方が何かと確実なようにも思う。女である自分の武器は、頑強さなどではないのだから。
 そもそもこの話は前提からして少しおかしい。

「…イザナ様ほどの腕前なら、敵ひとり簡単に討ち取れましょう」

 イザナの剣の腕前はなかなかだと聞いている。稽古以外で剣をふるっている姿は見たことはないが、ゼンやミツヒデは彼の剣の腕前を絶賛していたのだから、強いのだろう。
 何より、イザナが何の思惑もなしに不逞な輩とやらを自分に近寄らせるとも思えない。己の目的に必要ならば、敵すら招き入れる。イザナはそういう男だと木々は思っている。勿論、最終的には招き入れた敵を打ちのめす算段も忘れてはいない。

「随分と俺を持ち上げてくれるんだね」
「…いえ、」
「俺にも思い通りにならないことは沢山あるよ」
「ゼン様ですか」
「そうだね、あと白雪もそうだし…君もだよ、木々」

 愉快そうに、イザナは木々への距離を縮めてくる。木々は動かない。気紛れと戯れもここまで来ると諦めるしか対応が思い浮かばない。どう足掻いても自分が優位に終わることなどないのだから、尚そう思う。
 思考に耽りながら、それでもイザナから目を逸らさない。簡単に距離を詰め終えた彼は微笑みながら木々の肩に手を置いた。

「…まあ、これからもゼンを頼むよ」
「言われなくとも」
「迷いないなあ、」
「当然です」

 木々は視線も意志も言葉も揺らがさずイザナに対する。そんな彼女の何に満足したのか、イザナは微笑んで、一度彼女の肩を叩いて部屋を後にした。
 やりづらい相手だと、嘆息しながら直前までイザナが触れていた箇所を押さえる。微かに残った熱を消すように、数度軽く肩を払った。残るような熱を持っていたのか、失礼な、だが正直な感想が頭を駆けた。
 部屋の主は、まだ帰らない。もう今日の午後は休暇と決めてしまったのかもしれない。兄が新たに寄越した仕事のことなど知らぬまま、今頃愛しい少女にちょっかいを出しているのだろう。明日を思えば知らせてやるのが親切かもしれないが、木々はもう自分も休もうと部屋を出た。
 ほんの数分で、エラく疲れてしまった。初めて触れられた肩に、不自然に意識を取られながら廊下を歩く。払ったはずの熱は、未だ消えずに木々を乱していた。


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キスもしない距離
Title by『にやり』




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