※コミックス派にはネタバレ・完全なる捏造




「最近、あまり保健室に来なくなったわね」

 昼休み。二年の校舎の廊下で、偶然はち合わせた赤が、いつもの淡々とした口調で話しかけてきた。話し掛けられた阿久根は、彼女の言葉を受けて、考えて、そうかもしれないと同意する。確かに、自分はめっきり彼女の城とも呼べる保健室を訪ねていないと。
 阿久根がまだ柔道部に所属していた頃、彼はよく保健室に世話になっていた。柔道部にはマネージャーがいなかったし、男女混合に近い部活形態とはいえ部員である女子に手当てさせるのも気が引けた。男子に手当てされるのは、あまり気が乗らなかった。何より実力が突出し過ぎている阿久根は部の中では若干浮いた存在だったから、怪我の心配をし合うような親しい友人はいなかった。それは、部活を離れてもあまり大差ない。極めつけとして、部長の鍋島猫美が、それなりに大所帯の部活で全員の怪我を手当てしていたら部の備品がすぐなくなるから保健室に行けとお触れを出した。だから、阿久根は高校に入学して柔道部に所属してからの約一年間。本意ではなかったが足繁く保健室に通うこととなった。
 天才と呼ばれる阿久根が頻繁に保健室を利用しているなど、ノーマルな人間からしたら信じられないかもしれない。だが入部当初は鍋島に良いように投げられ抑えられ小さな生傷が絶えなかった。その後実力が付いても努力を怠る人間ではなかったから、一人取り組む自主練で傷を作ることも多かった。
 そんな風にして、阿久根は保健室の常連となり、その保健室にいる赤とそれなりに会話を交わしそれなりに懇意となった。次第に阿久根がこの程度なら保健室に行く程ではないと思い放っておこうと決めた傷さえ、赤はどこから嗅ぎ付けたのか目敏く見つけては阿久根を保健室へと連行した。そんな光景が、春先まではよく繰り広げられていた。

「生徒会に入ったからね。前みたいに小さい怪我はしなくなったんだよ」
「成程、保健室では手に負えないような大怪我を負うようになったと、」
「……え、と」
「風紀委員とやり合ったり、時計台の地下でも一悶着、挙げ句マイナス十三組と戦挙、無傷で済むとは思えないわ」
「随分詳しいんだね」
「生徒会の武勇伝は何かと耳に届くものよ」

 本当は安心院なじみから寄せられた情報が殆どであるが、そこは伏せて赤は阿久根を詰る。怪我は怪我だろうに、と赤は阿久根が小さい大きいと程度を区別しているそれをばっさりと切り捨てる。正直、生きている人間ならば、赤は阿久根がどんな怪我をしてやってきても適切に処置してやれる自信がある。それは、この広大で膨大な生徒数を誇る箱庭学園で、生徒達の健康を一手に担う保健委員長としての意地か、ずっと阿久根の怪我の治療に当たってきた赤青黄という少女としての意地か。赤本人も、はっきりとは分からない。ただ、怪我の手当てという、赤にとっては何の珍しさもない作業を、阿久根に対して何度も繰り返しながら、その度に律儀に礼を述べる彼の姿を、赤は今もはっきりと瞼の裏に思い浮かべることが出来るのだ。
 保健委員として、やるべきことしか、赤は阿久根にしてこなかった。それだけが、赤に求められていたことだから。それなのに、阿久根は赤を優しいと形容する。謝辞を述べる。赤は、それを解し難いと思う。阿久根が礼を述べる度、赤は無感動に微笑むこともせずにどういたしましてと返す。礼を言う前に、怪我を減らす努力をしたらどうだとは、いつからから言わなくなった。無駄だと諦めたからか、次を期待しているからか。赤はなるべく考えないようにしていたけれど、たぶん最初はそのどちらもだったのが、次第に後者が圧倒的幅を利かせて赤の内側を占領し始めた。
 恋だろうか。それとも、今まで自分が面倒を見ていた子が急に自分を必要としなくなった寂しさとか、それに近い独占欲だろうか。どれにせよ、随分幼稚な気持ちだ。保健室に拠点を置く赤は、自分からは阿久根を招き寄せることは出来ない。気軽にお茶でも飲みに来てなんて、間違っても誘えない。第一そんな私用で使う場所じゃない。

「…生徒会役員になってから制服も変わったのね」
「赤さんは出会った頃から変わらないね」
「まあ、トレードマークみたいなものね」
「風紀委員に捕まらないようにね」
「貴方もね。もう遅いんだろうけど」

 廊下の隅で、向かい合いながら、胸元をはだけた改造制服を身に纏っている阿久根と、丈の短いナース服に身を包んでいる赤。彼女に至っては制服の名残が微塵もない全くの別物だった。阿久根の場合風紀委員長である雲仙冥利の黙認を得ているが彼女はどうなのだろうか、と阿久根は不思議に思う。だが赤は出会った頃からこんな格好だったし、保健委員長だし、らしいと言えばらしい格好で似合っているから良いのかもしれない。基本的にこの学校は性格に癖がある人間であればあるほど制服をちゃんと着こなしていないから、彼女もまたそうした部類の人間なのだろうと結論付ける。そんなこと、赤の右手を見ればわかることだ。異様に長い爪を、阿久根はおかしいと思ったし、短い方がイメージとしては衛生的なのではと尋ねたこともある。赤は、ただ妖艶に微笑んで見せただけだった。阿久根が彼女の笑顔を見たのは、その時だけだ。
 阿久根が何の気なしに尋ねた彼女の爪が、実は様々な病気を操る能力を有する物騒な代物だとは、赤は彼に教える気はない。勿論、これで阿久根を引っ掻く気もない。でも少しだけ、引っ掻きたいとは思っていた。そうすれば阿久根はまた保健室に来るだろうから。
 今日、この廊下で阿久根が赤とすれ違って気付きもしなかったら、赤はきっと彼を引っ掻いていただろう。だけど一瞬目が合って、それから小さく彼が自分に向かって微笑みかけたから、赤はこっそり構えていた右手を自分の後ろに隠した。
 保健室でなくとも、自分達は会話に興じて関係を維持することが可能らしい。今日はこれを収穫として満足しておいてあげよう。だって阿久根は、こんな自分を優しいと思っているのだから。


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わたしは人間を待っていた
Title by『ダボスへ』






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