雨が降っていた。外套も纏わぬ服に大粒の雨は直ぐに浸透してしまって、体温を奪われる。ほうっと吐いた息が白かったのか、強すぎる雨足のせいでよく見えなかった。散歩に出ようとしたときから、既に雲行きは怪しかった。少しでも天候のことに意識を傾けていれば、この雨は簡単に予想できていたはずで、そういえば、いい加減な返事をしただけでよく聞こえていなかった恋次の声は、もしかしたら雨具でも持って行くようにと言っていたのかもしれない。そうであったのならば、今日の仕事はもう終わらせてあるからなどと、随分的外れなことを言い残してきてしまったのだなと、ルキアはふっと口元を緩めた。大粒の雨が瞼に当たって、反射的にきつく目を瞑った。
 嘗て、まだ死神になったばかりの頃。朽木家という格式にルキア自身がどうしても馴染むことができなかった頃(今でも、ただ兄である白哉と多少打ち解けたというだけで家名そのものに対しては何も変わっていないのかもしれないが)、自分では望みもしない僻みや羨みの視線が注がれる中、それはつまり自分と相手の間に線引きが存在するからだと、ルキアは出来るだけ心を冷まして、目を伏せて割り切ろうとした。突然得た姓が与えてくれたものは、どうやら彼女の実力など度外視した護廷十三隊への道と、庇護にしては広過ぎて、自由というには狭すぎる枠組みだった。そしてそれ以上に、もしかしたら自分の努力次第では手を伸ばせば掴めていたのではないかというものの多くを諦めなければならなかった。真っ先に思い浮かんだのは同じ流魂街で育った幼馴染で、あとは上手く想像できなかった。どうせ手放してしまったものだから、具体的でない方が心はきっと安らかだ。
 しかし人生とは(死神の一生をそう表すのかはわからない)不思議なもので、どれだけ孤立して、滞りなく与えられた業務をこなしながら最低限の接触だけで他者との関わりをやりすごそうとしていても、それでも全く縁というものを断ち切って生きられるものではないらしい。凍えはじめた身体を両手で抱き締めながら、瞼の裏に思い描く彼の人の笑顔に、ルキアはまだ大丈夫だと根拠のない自信に包まれる。志波海燕という人物について思い返すときは、いつだってそんな力強い感情が働いている。
 死神という名を纏いながら、たった一人慕った存在の死に随分と長いこと向きあえないでいた。直前まですぐ傍に立っていた海燕の身体に正面から突き刺した刀の感触を忘れたわけではない。零れ落ちていく命の気配も、一瞬で自分を飲み込んだ絶望も、未だにルキアの内側に存在しているものだし、きっとこれからもずっと引き連れて行かなければならないものだ。ただ眼を背けないだけの決意を固めただけのことで、失ってしまったものは失ったもののままなのだから当然だ。

「――海燕殿」

 呼んだ名前は、生憎と雨音でかき消されてしまうのにいつまでも鮮やかに記憶の中の自分の声が再生されてはっきりと聞こえたかのように錯覚できる。ようやく罪悪感をちょっとずつ肯定できるようになって、優しい思い出に微笑めるようにもなった。朽木の存在に押し潰されるように俯いていたルキアを導いて、それだけが全てではないと明るい場所に連れ出して、世界は明るいのだと気付かせてくれた人。そしてその死で以てまたルキアの世界を暗がりに戻した人。たった一人に、こうも世界を支配されてしまうものだろうかと改めて不思議にも思うし驚嘆もする。強大な影響力を持つ圧倒的な存在というものを否定する気は更々ない。半ば仕組まれていたとはいえルキアが出会った一護とてそうした存在の一人なのだろう。ただ自分の真ん中にそんな絶大なたった一人が居座っているということが、意外なのだ。わかっていて、もう会えない人だと受け入れていて、それでも何故風化して消えて行ってしまわないのだろうかと疑問に思う。誰かに尋ねてしまいたくて、だがそれはしない方がいいのだろうという漠然とした予感で口を噤んでしまう。
 好きだったと一口に語ってしまうことは至って簡単なことではあるけれど、ルキアとしてはたったそれだけのことであり同時にそんな簡単な想いではないという歯切れの悪い表現になってしまう。特別も、好意も、いくつもの分かれ道があって続いている相手はそれぞれ違ったりもする。海燕とルキアが出会った時、彼にはもう妻がいて、彼女を愛していて、だからこそ彼を失う道が鮮明に開けてしまっても、その行く手を遮ることは出来なかったのだ。眩しかったと、今でも反射的に俯いてしまう。そんなところに導かれてきたのだろう。
 海燕が死んで、照らされかけていたルキアの世界はまた暗闇に戻った。ただ失っただけなら、喪失感はやはり凄まじかったかもしれないが、もっと早く顔を上げることができたかもしれない。けれど奪ってしまったから、本当はあのとき一緒に消えてしまえば――もしくは海燕を殺してしまうような自分が死んでしまえば良かったのだとすら思っていた。例えばこんな風に雨に打たれながら、溶けて消えてしまえばいいと思っていた。――けれど。

「ルキア――!」

 名前を呼ぶ声がする。それは、今でもはっきりと思い出せる海燕のものではないけれど、決して無視できるものでもない声だった。顔を上げると、相手がぶんぶんと傘を振り回しているのが見える。持ってきてくれたのだろうか。咄嗟に駆け寄ろうかと思ったけれど、しかし自分はもうすっかり濡れてしまっていて、今更雨具など意味がないなと急こうとしていた心がまた落ち着いてしまう。相手からしたら、何を好き好んで濡れ鼠になっているのだと不審に映るだろう。
 こんな風に、自分に向かって差し伸べられる手があることをルキアはもう情けなくも、恐ろしいとも思わない。失うかもしれないと海燕との出会いを悔恨で途切れさせることももうやめた。何をやっているんだと怒りながら差し出された傘を受け取る(走ってきた相手の足もとは泥でひどく汚れていた)。
 いつかこの命が尽きる日が来たとして。そしてやはり海燕の胸に突き立てた刃が罪であったと罰が与えられるとして。それでもやっぱり、海燕が気付かせてくれた他者との繋がりに救われた命がある限り生きて、戦い抜いてみせようと思うのだ。時折、こんな雨の日には思い出で心を揺らしながら。


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君がいなくなるのはもうずっとずっと先、宇宙が光って消失する瞬間まで
Title by『にやり』



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