※捏造注意 雨の日、平日だが嶋田は非番だったので、ベッドに横になったまま窓の外から聞こえてくる小学生たちが通学する――恐らく、傘を差したことで沈んだり、高揚したりしているガチャガチャとした声と降雨の音が混じり合った――気配に耳を傾けながら、カーテンを開けるかどうか悩んで、止めた。 昨晩の深酒による二日酔いの症状は殆どなく、奇跡みたいだなとぼさぼさの頭を掻いて、自分が大仰な言葉を使ったことに気付く。二日酔いくらいで。町内会や商店街の爺さんやおっさんたちに聞かれたらまだまだ若造のくせに何を言っているんだと叱り飛ばされそうだが、嶋田はこういう風に自分が齢を取ったと感じる。酒を飲んで痛い目に合う回数が増えても、場馴れして無様な泥酔による失態を演じなくなっても、どちらにせよ生きて来た年月だけ齢は食っているのだ。 「――んっ」 けれどこれは若気の至りだと、嶋田は自身の隣にある(声を発した)布団の膨らみを眺めながら息を吐く。床に放り出されていた煙草を拾い上げて、火を点けた。薄暗い部屋に茫洋と立ち上って行く煙は、一体どうしたものかなと悩み始めた嶋田の思考の覚束なさに似ている。 高校時代の同級生がコーチをしているバレー部の教え子の姉に手を出しました。これは果たして有罪だろうか? 26歳と21歳。年齢だけなら、嶋田はまあセーフだろうとジャッジを下す。こんな田舎町ではわからないけれど、今どきの高校生の女の子だって時には嶋田よりずっと年配のおじさまとお付き合いしているケースがざらにあるはずだ。けれどそれは大半が援助交際という金銭のやりとりが存在する関係かもしれない。流石に嶋田はこの、隣で寝ている同級生の教え子の姉に金をせびられたりはしないだろう。初対面で明かした職業柄リッチな生活を想像されるはずもなし、また彼女もそんなにせせこましい人柄の様には見えなかった。たった一晩、二人きりで酒を飲み明かした挙句自宅に連れ込んで事に及んだ男の言葉にどれほど信憑性があるのかは、嶋田自身わからなかったけれど。 今も嶋田の隣で横になっている彼女――田中冴子はどの程度昨晩の記憶を残しているだろう。元が陽気な性格のせいで、どんどん酒を呷る彼女を止めるタイミングが掴めなかった。酔っていたことはお互い確実だがこういう酒の勢いで情事にもつれ込んだとき、事後の後悔が多いのはどうしたって女性の方なのかもしれない。現在付き合っている男のいない嶋田に言わせればそういうことになる。自分と二人で飲みに出かけることを提案してきたのは冴子の方だったから、彼女にも現在付き合っている男性はいないのかもしれないけれど、人柄を見るに性別問わず友人は多いように見えた。勿論嶋田との飲み食いも、初めはお友達として始まったのだ。 「んーーっ?」 もぞもぞと布団がうごめく。嶋田はベッド周辺に散らばっている衣類を確認して、このまま彼女が身を起こしたら気まずいことになるのではと危ぶむ。しかし布団の上から抑え込むわけにも行かない。慌てて吸っていた煙草を灰皿で揉み消す。 「あーー、田中さん、暫くそのまま動かないでくれるかな?」 「んんん?」 「服着ちゃってよ」 ベッドから降りて、床に散らばっている二人分の衣類から冴子の分をさっと拾い上げて布団の中に捻じ込んだ。意図は察してくれるだろう。嶋田も脱ぎ捨ててあった自分の服を素早く身に着ける。一度脱いだ服を再度着るのは袖を通した瞬間からくたびれた感触がして好きではないがどうせこの後シャワーを浴びなければならないだろうから、洗濯物が増える手間を考えれば仕方ない。 この後。それを考えるには、冴子の態度を見極めなければならない。警戒するような心持でいる自分が情けない。同意があれば寝られるのが大人だろうか。子どもの頃は多少なりとも、肌を重ねることに愛とか恋とか、そんな激しい言葉を引用したがった。相性なんて、問題ではないと言わんばかりに。 「うーん、飲み過ぎた。」 クリアな声が聞こえて、冴子が漸く布団から顔を出していた。素肌にタンクトップとショーツだけを身に着けてあぐらをかく姿に色気はなかったけれど、場所と状況を考えれば異様なまでの健康的な姿にほっと安堵すら覚える。除けられた掛布団を、嶋田はもう一度引っ張って彼女の脚に掛けた。あまり晒され続けても目の毒なので。 飲み過ぎたと言いながら、嶋田と同じく二日酔いに苦しんではいないようだ。大きなあくびをして、漸くいつも寝起きしている部屋とは違う場所にいると認識して周囲を見渡す。それから嶋田の姿を捕まえて、きょとんと瞬きを繰り返してから「ああ!」と彼を指差した。驚愕でも後悔でも憤慨でもなく、ただ嶋田を発見した、それだけの反応だった。 「情けない顔してるなー!」 「……いや、そんなあっけらかんとしたリアクションされるとは思わなかったから」 「ん? ああ、もっと騒ぐと思ったんだ!」 「まあそれもあるけど……」 「後悔するんじゃないかと思った?」 「うん」 何せお互いひどく酔っぱらっていたものだから。そう具体的に言い表すのは、益々冴子の腹を探ろうとしているようで躊躇われた。もっと大人として、泰然としていたいと思うのは、大人というよりは男のつまらない見栄だろう。そういう飾りは、恐らく目の前の彼女には意味をなさないだろうけれど。 「んー、別にしてないけど」 「え?」 「だから、後悔とかしてないよ。だってちゃんと聞いてくれたでしょ、本当にいいのかって」 「――そうだっけ?」 「そうっすよー! そんで、アタシが構わないって答えてこうなったわけだから気にしないでよ。気にされた方が逆に傷付くから!」 昨晩の会話の細部は既に朧気で、ギリギリの瀬戸際で一応は同意を取り付けていた自分に僅かばかりの賞賛を送る。そして同時に、会話を記憶してそれを酔っ払いの戯言とせずに語る冴子の、昨晩の意識の在り方が気にかかる。まあ単純に、発情したので一晩限りでどうですかという後腐れのない同意という意味だったのかもしれない。女子大生だと聞いている。成人していて学生でもある、一種最も気楽な時期とも言えるだろう。多少羽目を外しても不思議ではない。 こう深く考えるところが、冴子に比べて嶋田が齢を食っているという如実な面だった。冴子はただ、嶋田が自分と関係を持ったことをやけに真面目に重く考えようとしていることくらいしか、その表情から察することは出来ない。彼女は物事を複雑に考えることを好まない。勉強はあまり好きではなかった。恋愛も、捕まえてほしいと駆け引きを持ちかけるよりは自分から押していく方が性に合っているのである。 「――ねえ」 「ん?」 「タバコ吸うの?」 「ああ、偶にね」 「ふーん」 灰皿に残った吸い殻に目を遣る。冴子の視線に釣られるように、嶋田の視線も彼女から外れる。そしてその一瞬を逃さない。 嶋田が掛けた布団を再度押しのけて、冴子は彼にしがみつく。驚く嶋田の顔が此方を向くと同時にその唇にキスをして――思っていたほど煙草の味はしなかった――、笑う。 「た、田中さん?」 「冴子でいいよ」 「えっと、取りあえず離れて――」 「アタシから誘ったんだけどな」 「へ」 「昨日、アタシから誘ったの、覚えてないんだ?」 だから気にしないでいいよ。冴子の言葉に、嶋田はほっとしていいはずだった。しかし情けなさも湧いてくるのはどういうわけだろう。答えはわかっていて、セックスに絆されたわけではないのだという言い訳への確証が欲しかった。それこそ、たった一晩で用意できるものではないこともわかっている。でも嫌いじゃない。弟の試合をただ純粋に応援しに現れた田中冴子という女性のことを、嶋田は嫌いじゃない。二人で食事に出かけるくらいには、好きになっていたはずだ。 「あー冴子さん?」 「さんもいらなーい」 「それはいきなり大胆だな」 「セックスよりも?」 「はっきり言い過ぎ」 「はっきりさせなくちゃ」 「何を?」 「酒の力を借りなくても、いいものかどうか」 どうやら冴子はタンクトップの下にブラジャーをつけなかったらしい。絡めた腕にやたらと押し付けられている膨らみの意味くらいわかる。何せ嶋田はもう大人なので。この展開に持ち込むことを予期しての確信犯なら大したものだ。答えを待たせるのはきっと、昨晩のことを気に病み続けるのと同じくらい冴子に対して失礼だろう。ぐらぐらと崩れていく思考の天秤が、かろうじてこの部屋の外の世界を気付かせる。 雨の音がする。通学する子どもたちの気配はもうとっくに通り過ぎている。子どもたちは学校に行き、商店街の店々は開店準備を始める頃だろうか。外の世界が動き出す頃、この部屋の中はひどく静かだった。 「朝からか――」 出来るだけ茶化そうとした。結局最後まで、引くならばそれも彼女の方からと期待した。詰め寄るのも、突き放すのも格好悪い気がする。 この期に及んでそんなことを考えている嶋田に、やはり冴子は押しの一手しか選ばない。 「だって、大人でしょ?」 そう、言葉通り大人のように微笑んでまた唇を押し当ててくる冴子に、嶋田は今度こそ降伏した。 冴子に覆い被さるように倒れ込んだベッドは少し冷え始めている。 若気の至りとは誤魔化せない、大人だから、朝からセックスだって出来るのだ。それは嶋田には驚くほどの新事実だった。 ――なるほど、それも悪くない。 そう、一切を納得して、嶋田は冴子にキスをした。雨の音は、聞こえない。 ――――――――――― セックスは遊びじゃない Title by『にやり』 |