医者になるという夢は、宙地の中に宇宙飛行士という夢を並列させるよりも以前にぼんやりと存在してきた。だから、火星のゲートを開いて以降、スターズ探しに同行しないという結論を出したことに後悔は全くない。彼が宇宙を目指し、また宇宙に在る姿を描くにはやはり医者になっている未来の自分が不可欠であるのだから。そして、ずっと抱えていた夢の大前提として宇宙を目指すことを、あの中学三年の冬に意を決して選ばなければその夢は描くことすら出来なくなっていたことを改めて実感する。その背中を押してくれた白舟真帆という少年が、宙地とは違い一瞬の逡巡も躊躇もなく再び宇宙に行くことを選ぶということも、彼には最初からわかっていたことだ。ただ「戻る」という表現を用いたことだけが予想外で、宙地の中に微かな焦りを生んだ。
 アプロレーンに、宙地たちST&RS宇宙学校日本校のクラスメイトたちは全員が使節団への参加を希望し降り立ち、それぞれ選択したプロジェクトを進めるべく日々を過ごしていたのだが、世間的身分は高校生である。時期が来れば、きちんと卒業してまた宇宙飛行士として参加する立場を変えなければならない。宇宙で形式的に行うこともできたのだが、宙地を含め何人かは卒業を機に別の道へ進むこともあるのだからと、ST&RS宇宙学校所属の子どもたちは揃って一度地球に帰還することになった。ペロプニャンの力添えがあればこそだが、随分と地球と宇宙の行き来が簡単に行われた。地球の技術だけではとても考えられない。
 2年ほどを過ごした教室で、クラスメイト達は久しぶりの制服姿で集まっていた。卒業式は間近に迫っていたが、感傷的なムードは漂っていなかった。誰もが未来の自分の姿に希望を抱いている。或いは、現在の自分に誇りを持っている。火星での会談まで時間がない時期での入学は当初から難解なプロジェクトに参加させられることもあったし、普通の高校――通ったことはないので中学生活からの延長で想像する生活――よりもたぶん、拘束される時間も長かった。9時間目まである時間割を、誰もがいつの間にか当たり前のように受けていたのだから、宇宙への情熱とは今更ながら自分たちの重要な原動力だった。

「――宙地くん! 今日は来れたんだね!」

 感傷的なムードはないといったばかりなのに、宙地はどうやら思い出に浸り過ぎていたらしい。真帆が直ぐ傍に近付いていることに気付かなかった。真帆は、彼の声量に驚いた宙地が目を丸くしていることには気付かないようで、宙地を発見したときの笑顔を保ったまま隣に陣取った。
 クラスの大半がまた宇宙に戻ることになっているので、卒業式の日取りまでは結局アプローレンから持ち帰ったプロジェクトの雑務をこなしている人間が多い。また家族と会うための時間を取る為に、連絡さえ取れるようにしておけば寮ではなく実家に戻ってもいいことになっていた。しかしそれとは別に、宙地には医者になる勉強をする為の進路を決める必要があった。早い話が受験である。リードマンの元で多少の経験と手伝いは重ねてきたが、学生として医学部に入るとなるとそれなりに学力テストでの成績が求められる。宙地の顔は今や世界的に認知されているが、その意向を頼りにしても立派な医者にはなれない。宙地は宇宙開発に精を出す傍らでしっかりと一般の勉強にも取り組まなければならなかった。

「試験は終わったから。あとは結果を待つだけだ」
「そっか! まー宙地くんなら大丈夫だよ!」
「はは、頼もしいな」

 根拠は多分、だって宙地だからくらいにしか真帆は考えていない。それだけの信頼が心地良くもあり、これからを思うと心細くもある。どうか解けてしまわないようにと願わずにはいられない。今だって、真帆はさっさと卒業してまた宇宙に戻りたいと思っていることくらい、疑う余地もないことだった。
 真帆の大きな声に、クラスの視線がちらほらと集まる。「そういえば宙地は受験か」とか、「もう結果出たっけ?」という質問が飛んできたので、首を振ることで「結果はまだ」という返答をする。「でもまあ宙地だから大丈夫だろ」という真帆と同じ意見が飛び出して、大半がそれもそうだと頷き合っている。この妙な信頼感はどこから生まれてきたのだろう。不思議だけれど、これもあと少しのことだからと流れに逆らうことはしないでおいた。
  これはたぶん、楔になるだろう。けれど鎖にはならない。真帆を引き寄せる力はない。ただ、自分を刻み込むための行為だ。宙地は手の中で小さなケースを転がしながら考える。フロッキング加工されたケース表面の手触りは良かった。捕えきれるかは実は自信がない。それでも、心だけはいつだって自分の傍にあるはずなのだ。お互いに。そんな考え方も、もしかしたら高校生の宙地には背伸びしたもののように思えた。その高校生である時間が終わったとき、確実に離れてしまう距離と、ずれてしまうかもしれない時間。怯んでいる場合ではないのだ。
 まだクラスメイト達の意識が自分たちに向いていることはわかっていたけれど、タイミングを窺い過ぎてチャンスを逃しては元も子もない。

「――なあ、白舟」
「ん? 何?」
「俺は医者になるよ。医者になってまた宇宙に戻って、ペロプニャンの星に開かれる診療所で働きたいと思ってる」
「うん。知ってるよ、宙地くんなら絶対にできる!」
「ありがとう、それで……さ」
「うん?」

 屈託なく宇宙の瞬きを映す瞳が、じっと宙地の顔を覗き込んでくる。怯まないと決めたばかりなのに、その意思が挫けそうになる。それと同時に、彼を手放したくないと思う。いつだって宙地のあと一歩を後押ししてくれるのは、白舟真帆その人だった。だから今、何かを迷う訳にはいかなかった。
 膝をついて、真帆の顔を見上げる。驚いて宙地を呼ぶ声に、クラスメイトたちの意識だけでなく視線までも集めてしまっていることがはっきりとわかる。だからこれは、決して撤回できない、するつもりもない、たった一度の宣誓だ。

「俺と結婚してくれないか」

 ずっと手の中で待たせていたケースを開けて、真帆に差し出す。シルバーのシンプルなリングは、たぶん指よりもチェーンを通して首に掛けていた方が動きやすいだろうから、それも用意してある。重荷にならないように、けれど枷にはなるように、邪魔はしない、ただ過ぎらせてほしい。これからの真帆の輝かしい道の先に、地球に残る宙地渡という存在を。
 周囲がざわついている。真帆は目を大きく見開いて、何か言おうと口をはくはくと動かして、けれどどれも言葉になりはしなかったのか何も言わない。
 勿論、結婚というのは言葉の綾であって、男同士で結婚なんて――できる国もあるだろうが――日本人として育った自分たちにはとても現実として描きにくい未来ではある。ただいつか未来で、当然のようにまた並び立つ光景が欲しいのだ。今の自分たちのように、誰も彼もが自分の道を選んで分かれ道を行ったとしても、白舟真帆の元に、宙地渡は戻るのだと、それを受け入れて欲しかった。

「――いいの?」
「白舟?」
「僕、考えなしだから、宙地くんを待ちきれないでスターズ探しに夢中になって、見失っちゃうかもしれないよ、宙地くんのこと」

 それでも見つけてくれる? 追い駆けてくれる? 待っていてくれる? 想っていてくれる?
 真帆が次々と尋ねてくる疑問に、宙地は全てに頷いた。そしてそのために、この指輪を贈るのだと。ポケットに突っ込んでいたネックレスチェーンを取り出して、ケースから抜いた指輪に通して真帆の首に掛ける。手に取って、空に翳す様にまじまじとリングを眺める真帆に、高校生の小遣いで買えるレベルのものだからそんな凝視しないでくれと恥ずかしがると、そういう問題じゃないよと真帆は首を振った。

「宙地くんの想いが籠もったリング、僕の幻視だったら大変だから確認したんだ」
「それは、――それで、どうだった?」
「うん、本物だった! ありがとう!」

 それはきっと、指輪への礼と、その指輪に籠もった宙地からの想いへの返答だった。どうやら返品はされないらしい、やはり、どちらも。
 宙地がほっと肩の力を抜いた瞬間、そういえば見られていたのだったと意識から外れてしまっていたクラスメイト達から一様に歓声が上がった。口笛を吹いたり、手を叩いたり、アプロレーンだったら案外同性でも結婚とかできるのではと真剣に考えてくれる者までいる。そんな温かい周囲に真帆は単純に嬉しいのか手を振ったりなどしている。宙地はこういうとき、他人の優しさに礼を述べる以外どうしていいのかわからないままでいる。自分の他人に対する不器用さが時々恨めしい。

「これで、ずっと一緒だね」

 地声の大きい真帆が、宙地にだけ聞こえるように囁いた言葉は、そんな後ろめたさを一瞬で崩壊させた。
 数分後、めぐるとマルカといづみには、揃って婚約指輪は首ではなく指に通してやるのがロマンティックというものでしょうにと叱られてしまうのだけれど、それもまた一つの祝福の形だと、宙地は笑いながらその叱責を受け止めた。
 これから訪れるかもしれないどんな困難も、この瞬間を思い出せばどうということはないと思ってしまえるくらいには――宙地は幸せだった。




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大事にありたい
Title by『さよならの惑星』




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