※捏造


 遠月茶寮料理學園の授業は一般の高校で履修される科目も当然存在する。授業形態がクラス単位で生徒が一つの教室で順次時間割通りの授業を取るのではなく自分で選択した授業を受講するという大学方式に似ている為、親しい友人と隣り合うこともあればその日一日中見知った顔に出くわさないということもありうる。そうでなくとも授業によっては大勢が一つの教室に詰めかけることがあるので人目には顔見知りがいることに気付かないこともあるだろう。田所恵が高等部に進級してからずっと一人で受けていると思っていた日本料理史Uの授業を、普段は双子の弟と一緒に行動していることが多いタクミが一人で選択していることを今日初めて知ったように。
 恵から言わせればタクミはどうしたって創真の友人なのであって、自分と出くわしたとしても会釈ひとつですれ違って仕舞える程度の認知度だろう。タクミは創真のことをライバル視しているようだけれど、創真の方はどうだろう、と恵は首を傾げてしまう。自分と同じく現場に立ってきた料理人としてのプライドを持っているタクミのことを認めていることはわかるのだけれど、そもそもライバルという言葉に対してのスタンスにこの二人は大きな隔たりがあるように見える。涼しげな見目のタクミにしては意外な程に熱い勝負を望むのと同様には、創真は言葉を使わないだろう。けれどそんなちぐはぐな二人が作り出す料理を見ているのはとても楽しい。同じ料理人として、既に現場に立ちお客を相手取って来た彼等を尊敬もしている。目には見えなくとも、料理人としてのプライドにかけては創真もタクミもどっこい、かなり高い意識を持っているように恵には見えていた。
 そんなことを考えていると、授業中だというのに恵は浮かんできた笑みに思わず口元に手を添えて周囲に気取られないように隠した。教師による板書もいつの間にか進んでいて、恵は慌ててノートに写し始める。幸い、それほど長時間置いて行かれたわけではないようだ。映した文字を目で追って、理解できる内容だと一人頷いていると、隣から視線を感じた。見遣れば、恵の隣に座っていたタクミが不思議そうにこちらを見ている。途端に気恥ずかしくなって、へらりと笑って誤魔化して恵は慌てて顔を前に向けた。そうだった。今日は、どういうわけかタクミが恵の隣に腰を下ろしたからつい彼について考え始めてしまったのだ。彼はもう視線を自分から外してくれただろうか。確認する勇気はない。


 恵がこの教室に入ったときには、既に前方の方から席が埋まり始めていた。春から取り続けている授業なので、皆それぞれ座る席には習慣が出来始めている。疎らに生まれたスペースは退学になってしまった生徒たちの名残なのかもしれないが深く考えない方がいい。恵は勿論、誰だって明日は我が身の話題なのだから。高等部への内部進学の成績が最下位の落ちこぼれと不名誉に名前と顔が知れ渡っている恵としては一人でいるときは出来るだけ心穏やかにひっそりと過ごしていたいという本音もある。相変わらず、実習で創真と組むときは周囲の視線がやっかみと好奇心で突き刺さるように向かってくる。創真にばかり向かうそれらの視線にスルーされている恵の方の居心地が悪くて仕方がない(しかし当の本人はいつもどこ吹く風で目の前の料理にしか興味がないのだ)。
 こんな風に小心者の恵なので、正直タクミが隣に座っているこの状況は心臓に優しくない。別に恵がタクミにときめいているという話では全くなしに、ファンクラブを有するほどの人気がある彼に想いを寄せる女子生徒たちの視線がちりちりと恵の方を刺してきているということが問題だった。侮りの視線よりも、妬みの視線の方がよっぽど敵意に満ちている。それでも、わざわざ「隣、いいかな」と声を掛けてきたタクミに出来れば余所に座って欲しいと言えるわけもないしそんな選択肢を思い付きもしないのが田所恵なのである。



頬杖を突きながら、タクミの視線は隣に座り前のめり気味に黒板を凝視しているメグの方へ向いている。先程、何を思い出したのか微笑みを隠すように視界の端で動いた恵の方を見ていた直後に合った目を露骨に逸らしてからずっと彼女はこんな調子だ。素直な子なのだろう。だからこそ隠しきれずに気まずいと纏う空気が訴えてきている。つい隣に座ってしまったけれど、よく考えれば創真のいない場所で二人きりというのは初めてのことだったと思い出して段々タクミも気恥ずかしくなってきてしまった。押すのも押されるのも弱そうな女の子だ。滅多にないことだけれど、タクミは女の子に頼みごとをして断られたことがない(非現実的なことを頼まないからでもあるが)。だからつい、口をついて出たお願いが恵にとってどんな意味を持つのか考えずにいたのだけれど、もしかしたら迷惑だったのかもしれない。隣に座るくらいとはいえ、タクミは今まで恵と一緒にいる創真にしか声を掛けて来なかったから急に二人きりで至近距離に座って大人しく授業を受けているだけとはいえ間の持ち方がわからない。それは恵にしてもタクミにしても同様で、けれど失敗したと項垂れるには彼女はタクミにとって無害過ぎた。

「田所さん」

 小声で呼びかけた。周囲に座る生徒は誰もタクミの声に注意を払わない。彼に気のある女子生徒たちの数人かは耳をそばだてているかもしれないけれど、内容までもはっきり聞き取れるような至近距離にはその手の生徒は陣取っていないようだ。タクミの方に顔を向けた恵の表情は、驚きと緊張と不安がないまぜになっていて今までこんな風に女の子に怖がられたことのないタクミには心外で、意図しない事態であったからどうにかして生じている誤解を解いておきたかった。
 ――誤解というと?
 自身に問いかけて、それはたぶん突然隣に座っていいかなんて聞いてしまったことに恵を怖がらせる他意は含まれていなかったということ。けれど彼女はタクミに悪意など疑っていないような気がする。ならばどうか委縮しないで欲しいと願うのだけれど、それは言葉にしては逆効果だろう。だから多少、意地悪だと思われてもいいからショック療法染みた荒業で慣れ親しみたいと思ってしまったのはどういうわけか上手く言い表せないのだけれど。

「また、次も隣に座っていいかな」

 こう尋ねた時、自分がどんな種類の笑みを浮かべていたか定かではない。だが今が授業中でなければ情けなく悲鳴を上げていそうなほど悲壮な顔をした恵の態度を見ていれば和やかな笑みを浮かべてはいなかったのだなということが容易に察せられた。
 知り合いと同じ授業をお互いひとりで受けていて、じゃあ距離を近づけましょうという発想に至らない恵は本当に今日までタクミが同じ授業に席を取っていることに気付いていなかったのだろう。タクミはGWの合宿が明けてから、田所恵という存在を認識してからの最初の授業の時にはとっくに気付いていたのだけれど。こんなにスムーズにいかないなら、もっと早くに声を掛けておけばよかった。創真越しにしか眺めたことのない恵と、創真のいない場所で接することに上手くいかないことをてこずっていると感じてしまう。恵もきっと、創真越しにしか自分を見ていないことがわかっているから猶更。
 女の子から誘われるばかりで、その上全てを無碍に断って来た男女間のやり取りに関する疎さが悔やまれる日が来るなんて思いもしなかった。けれども仮に、次の授業で自分が先に席に着いていたとしても。後からやって来た恵に声を掛けて結局隣に座るよう促すことくらい造作もない気がする。きっと彼女は困ったように挙動不審な仕草を見せて、それから最後にはタクミの誘い通りに隣に座ってくれるだろう。
 忙しないもしもの想像を膨らませて行くタクミの手はずっと止まっていて、教師の板書はどんどん進んでおり一度消されて更に綴られていく日本食の歴史は全くタクミの頭の中に入って来ない。だからたぶん、二人の次の会話は来週の授業を迎えるよりも先に今日の授業のノートを見せてくれないかという地点に落ち着くのだろう。勿論恵は断らない。
 迷惑は、掛けるものだ。



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落ち着かないのね
Title by『alkalism』



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