クローゼットから取り出した礼服は二十代で初めて友人の結婚式に出席する為に購入したもので、そろそろ年齢を考えて買い換えるべきかなと潤は検討している。冠婚葬祭を兼ねない明るい色合いを年間通して何度着るかを考えれば奮発する必要もないと感じてしまうのは無精だろうか。湿気防止剤を最後に取り替えたのはいつだったか。虫に喰われていなければいいけれど。確かめる為に顔を近付ければ、如何にも長期間クローゼットに仕舞っていた臭いが鼻先を掠める。臭いは物の状態を率直に表すのだと、潤は溜息を吐きながらクローゼットを閉めた。
 中等部から遠月に籍を置いていた潤には友人と呼べる存在は少ない。先輩や後輩に顔見知りは見つかれども、志半ばで力及ばず学園を去らなければならなかった者からすればOGとして遠月の教職を得ている人間に声をかけたいとは思わないのだろう。潤は気にしないけれど、それは脱落しなかったという結果から、脱落者の気持ちがわかっていないだけという気もする。勿論、無事遠月を出て今も料理人として活躍している友人もいるけれど。三十を過ぎたあたりから、知り合いの結婚式に呼ばれる回数は減ったように思う。数少ない友だちが全員嫁いだのか、仕事が軌道に乗り潤同様仕事人間に落ち着き始めたか。式を挙げずに結婚報告の葉書だけが送られてきた人もいた。潤の自宅ではなく遠月のゼミの研究室に送られてくることもあり、そういえばあの葉書はきちんと自宅に持ち帰っただろうかと思い出そうとするも記憶がはっきりしない。捨ててはいないだろうから、デスクの引き出しを漁れば出てくるはず。それよりも、潤の近辺に関しては彼女以上に把握している葉山に聞いてみた方が早いだろうか。尋ねただけで、ずぼらを咎められそうな気がした。十八も年下の少年に、潤は割と頻繁に頭が上がらない。
 引き出しの中身くらい自分で把握しろと怒る葉山の姿を想像しながら、潤は礼服をソファに放り出すともう自宅を出る時間ギリギリなことに気づき、慌てて家を出た。途中きちんと鍵を閉めたか不安に駆られて来た道を引き返してしまい結局遠月の研究室に着いたのは予定した時間を幾分過ぎてしまってからだった。遅刻はしていないのだけれど、葉山よりは確実に遅い到着は潤の気分を重くする。出会った頃よりもずっと逞しく成長した(しかし潤にはまだまだ子どもの)背中を横目に荷物を置けばやはり彼は日課となりつつあるスパイスの水遣りをこなしているところだった。潤がよく忘れてしまう、そのせいで葉山が気を回してチェックしてくれている行為。

「葉山くん、今度の日曜日、私出掛けるね」
「――結婚式。午後一時までに式場のホテル。寝坊するなよ」
「わかってるよ!」
「水遣りは大丈夫だから心配するな」
「うん、してないよ」

 他愛ない話題で引き出した声色に怒りはなく、潤はこっそり安堵の息を吐く。どうやら今日の水遣りは元々葉山の当番だったようだ。それすら把握できていないことは問題だけれど、水遣りを忘れて葉山に叱られることも潤にとっては大問題なのだ。出会い頭から彼には助けられているけれども、潤が教授を務めるゼミにおいでまで彼の助けが必要不可欠という認識が周囲にまで浸透してしまったら困るというより情けないやら恥ずかしいやら複雑な気持ちになる。三十を過ぎた独身女で専門特化とはいえ教職にある人間が、十代の男の子の学生の助けがなければ何も出来ない。字面を浮かべただけで凹んでしまう。
 これも単に葉山が優秀で汎用的なのが悪いのだ。なんて責任転嫁とはわかっていても考えてしまう。葉山アキラは、天性の軒並み外れた嗅覚とそれを生かす料理の才能によって潤が思う以上に輝く前途が待っているのではないか。潤の知識量には及ばなくとも、料理として実践する力を彼女の為に揮う葉山に時折気後れに似た戸惑いが生まれるのも嘘ではない。けれど折角遠月という広大な舞台にやって来たのだから、もっと他のことにも興味を持ってみるのも悪いことではないと潤は思う。これで本当に葉山が外の世界に目を向けてしまったら、この研究室のスパイスのいくつかは枯れてしまうかもしれないけれど。

「考え事か?」
「え? えー、また数少ない独身仲間が結婚しちゃうな〜と思って!」
「…………」
「そ、そんな目で見るな!」
「――まあ、焦る気持ちもわからんでもないがあと数年は大丈夫だろ。余裕持ってろよ」
「何で葉山くんが断言するの!?」
「それに今焦って男漁りなんかしてもスパイスのこと語らせたらその瞬間にフラれるだろうし」
「し、失礼な! スパイスの魅力をわかってくれる男性だって世の中にはきっといるもん!」
「スパイスの魅力じゃなくて潤の魅力が問題なんだろ」
「本当に失礼!」

 仮にもゼミの教授と生徒という間柄なのに、葉山の物言いは全く以て自分への敬意がないのだと潤は年甲斐もなく頬を膨らませて壁にかけた白衣を取りに彼に背をむける。全身で怒っているのだという空気を発しながら横目で葉山の姿を見遣れば彼は潤の方を見ることすらなくまた水遣りを再開していた。何たる無関心!
 潤の憤慨を余所に、葉山も葉山で頭を掻く。自分の倍近い人生経験を積んでいる筈の女に、全く自分の言葉が意図することが通じないのだから朝から頭が痛い。見た目が見た目なので、潤自身気にしているのかわからない年齢と立ち位置を軽口でいなしながらきっと葉山の方がずっと気にしているのだ。埋まらない歳の差のせいで自分がどれだけ足踏みしなければならないか。逸る気持ちを安心させる為に、彼は遠月で一番にならなければならない。潤の生きてきた証であるスパイスと、その論理をこの手で形にすることで。
 しかし葉山の熱い気持ちに今日も今日とて気付くことのない潤は、小柄な身長のせいで裾を引きずっている白衣に袖を通しながらぶつぶつと彼への文句を垂れ流している。

「要するにスパイスの魅力も潤の魅力もわかっている男だろ?」

 葉山の呟きは当然ながら潤の耳には届かない。身近な愛の熱に気付かない彼女の思考は彼への怒りからあっさりと流れて日曜日の結婚式、きっちりとした化粧なんて随分と久しぶりだがきちんと覚えているだろうかということだった。
 そもそも「化粧ポーチってどこに置いたっけ?」と腕を組むも、流石の葉山からも「知るか」という素っ気ない声が返ってくる。そこに微かに滲んだ不機嫌の色に、潤は気付いたけれどもその理由にはさっぱり心当たりがないのであった。



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ここにいるんで
Title by『さよならの惑星』





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