武骨な手をすり抜けて行く柔らかな髪を慌てて捕まえる。痛むと訴える声は当然だった。振り向かなかったのは、煙爾郎が掴んだままの髪を勢い余って益々痛めないため。
 取り上げられたシュシュが視界の端にちらちらと映り込んでは猫を誘う遊具のように小窓を歯痒い気持ちにさせる。垂らしておいても何ら問題はないと言い募っても、気紛れに結い直してやると言い張った煙爾郎の手付きはどうにもぎこちない。事の成り行きを面白がって見物していた隼汰は、事態を面白がるからこそ気を遣ったつもりで席を外してしまった。彼の方がまだ小器用そうだと思う小窓の落胆はきっと間違ってはいないのだろう。ただ隼汰は、するりと外れ落ちた彼女の髪飾りを拾い上げることはあっても、わざわざ更に結い上げまで名乗りを上げて引き受けることはしない。それは親密さに由来するものではなく、普通ならば誰であってもそこまでしないからだ。

「お前髪の毛細いのな。剥げるぞ」

 お決まりの悪口は嫌が応にも馴染んで、釣られて口賢しくなることが悔しかった。影響されているだなんて認めたくなくて、汚染されているとでもふんぞり返っても煙爾郎は気にも留めないだろう。本気を出せば舌戦ならば負けないのだけれど、そんな風にむきになること自体が癪なのだ。
 剥げないわよと口先だけで乗り気でないことを察してくれるだろうか。期待するだけ無駄だろう。小窓が煙爾郎に期待することはただひとつ、弁天高校を甲子園優勝に導くことだけ。それだって、たったひとりの投手の肩に背負わせるには重すぎるくらいなのだ。ふてぶてしくてよかった。ひねくれ者でよかった。本来褒め言葉に向いていない彼の性格を讃えることは小窓にとって後ろめたさを隠す自己擁護に過ぎない。だから絶対言葉にして本人に伝えたりはしない。こんなちっぽけな意地を張りながらでなければ小窓は煙爾郎と向かい合うことができなかった。情けないと唇を噛む惨めさを、彼が背後にいる限り見咎められることはないだろうという安堵はしかし微塵も小窓を癒さない。

「さっさと結んでよ」
「んー」
「部活でしょう。これから」
「そうだな」
「部活、楽しい?」
「ああ」
「それはよかった」

 皮肉を交えない会話は思った以上に弾まずに、小窓はまるで当たり障りのない幼稚園児と先生の会話のようだと思った。慎重を心がけているのだろう。煙爾郎の意識は小窓との会話よりも彼女の髪をなるべく強く引っ張らないことに在る。ゆるり頭上でお団子に括られていた髪を彼がどうするつもりなのか、難しい髪型ではないでしょうにと言いかけて、澱んだ。悪口の延長でクワガタヘアーと称したこともある、野球をするのに邪魔にならない長さであればと無造作に跳ねた彼の髪型を鑑みて、そもそもゴムを手にしたこともないのだろうなと理解する。

「――お前さあ」

 突然だった。伸ばした髪を弄ばれる感触は遠い。それがいきなり不用意に距離を詰められた。大きな掌が小窓の頭を撫でて、離れた。一瞬の動作に跳ね上がった心音は平穏からは遠いのに、名残を惜しむ心は何故だろう。

「なんか頼りないな」
「――そう」
「悪口じゃないんだが」
「なお悪いじゃない。本音ってことでしょう。マネージャー、不安?」
「そういうわけじゃなくて」
「じゃあ」
「女はみんなこんな細っこかったら頼りなくてしょうがない」

 それは小窓の責任ではなくて、生物学上の差というものだから彼の言う通りしょうがない。どうしようもないと言った方が正しいのかもしれないが、らしくない物言いをするものだと小窓は瞼を伏せた。
 髪を結いたがったりと、らしくないことばかりを続けられれば不調を疑いたくなるもので。しかし煙爾郎が不調だった現場に遭遇したことがない小窓はわかりやすく顔色を変えて貰ったり、体調を崩して貰わなければその変化を指摘することはできそうにない。弁天高校のスカウトとして小窓が調べた煙爾郎の来歴。一通りを調べ上げ、彼女が知っていることはその一通りだけなのだ。
 割り切ってしまえばいい。知る必要などないと。煙爾郎が弁天の救世主たればそれだけで用は足りている。個人的に親しくなる必要はないと理解していて、それでも尚と向かっていくこの気持ちは何だろう。自問して、首を振る。そこまで小窓は鈍くはない。知りたいと思うこと、その根底は即ち――。

「ねえ煙爾郎、髪、結んでくれないの」
「――ああ、そうだったな」
「丁寧にお願いね」
「任せろ」
「頼りないわ」
「嫌味か?」
「ううん、ただの予想」
「そうか」

 やはり今日の煙爾郎は調子が狂う。仕掛けてみても乗ってこない口賢しさ。ぎこちないくせに妙に優しい手付きだとか、やんわりと結われている感覚と馴染んだシュシュが花を飾る。鏡は見ないでおくことにする。どれだけ体裁をなしていないとしても、この奇妙な優しさを小窓は享受する。

「ん、できたぞ」
「ありがとう」

 向き直って、存外近過ぎた距離を悟る。俯いて、緩すぎないかだけを探る。問題なし。部活で動き回ってもこれならば。
 煙爾郎は、彼もまた慣れないことをした自覚があるのだろう。拳を握っては開きを繰り返し、ぎこちなさが手に染みついてしまわないようにと指を解している。
 小窓はひっそりと想っている。ぎこちなさが解れても、どうかまた私に触れてくれないかと。その願い、知りたいと思うこと、その根底は即ち芽吹き始めた拙い恋心であることを小窓は知っている。


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願ってしまった。君の体温に包まれる日が来ますようにと
Title by『彼女の為に泣いた』






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