※前ひな要素含



 日の入りの刻が遅かった。立夏には夏を覚えず、夏至に下りを見ることもなく。しかしもう昼間の太陽の時間は擦り減るばかりだと情報としては知っていた。暑さは日に日に増して、不愉快な熱と湿気が纏わりつく季節だった。
 川涼み、隣に座る片岡との距離が正しいものか、磯貝悠馬は思案する。思考を働かせて、余計なことは思いつく隙間すら与えない為に脳に激務を課す。それに応えるには、この暑さが敵だった。殺せんせーが小さな沢を堰き止めて作ってくれたプールは日中の光の反射と生徒たちのさざめき声を失ってひっそりとしていた。まるで夏が終わってしまったかのような物寂しさに、それは錯覚にすぎないと磯貝自身が首を振る。夏はこれから本格的に始まっていくのだ。昨年までのようには、夏の長期休暇を待ち望む気持ちは膨らまないけれど。夏はいいものだと磯貝は思う。だってまだ、二番目だから。一年を巡る季節の名が四番目を迎えることを、磯貝は出来るだけ想像しないようにしている。受験生である以上、その逃避には限界があるのだが。
 学級委員として本校舎に提出しなければならない用紙を届けるのは億劫だが簡単だった。磯貝と片岡の二人、学年主任の教員から軽蔑の視線と嫌味の言葉を、たかがプリント一枚を受け取らせる為に貰ってやらなければならなかった。慣れてはいけないのだろうが、完全なる敵地で暴れるのは愚かしく、傷付いたふりをして俯きがちにさっさと本校舎を出ればどっと疲れが肩に圧し掛かった。荷物を持ってきてそのまま帰ればよかったとは思いながら、出来るだけ身軽な格好で本校舎に乗り込みたかったのかもしれないと自分たちの合理性のない行動にフォローを入れるように微笑んだ片岡に、磯貝はほっと力ない笑みを返しながら二十分掛かる山道を登ってE組の旧校舎に帰ろうとしていた。
 それから、気候のことだとか、殺せんせー暗殺の作戦についてだとか、近付いて来た期末テストのことだとか話題は細々と、それでも絶えることなく二人の間に残されていた。山路を登りきって、自分たちの教室に自然と目を向けた。大半の生徒は、もう下校してしまっているようだった。二人が提出するプリントの書き込まなければならない要項に着手したのが既に放課を迎えてからだったので当然と言えば当然だった。教員室からも誰かがいる気配は感じ取れなかった。
 さっさと鞄を取って帰ろうとした磯貝の腕を、突然片岡が掴んだ。驚いて片岡の方を見遣れば、彼女は委員長らしいお姉さんのような微笑みを浮かべたまま人差し指を顔の前に立てて「静かに」と囁くと彼の腕を掴んだまま校舎とは反対の方向に歩き出したのである。引っ張られるまま、どこに行くのかと思いながらも尋ねなかったのはその行き先に直ぐに見当が付いたから。夏の風物詩。暗殺ターゲットが暗殺者の為に作ってくれた一夏の憩い場だった。
 プールに到着すると、片岡は靴と靴下を脱いで綺麗に揃えて置いてから両足を水に浸しプールサイドに腰掛けた。腕を離され、呆けて立ち尽くす磯貝に隣に来ればいいと地面をぽんぽんと叩いて促してくるから、大人しくその誘いに従い片岡と同じように靴と靴下を脱いでから彼女の隣に腰を下ろした。その際、過剰なまでに間の距離について気を張ってしまったことを、きっと片岡は気付いていないだろう。

「ごめんね、磯貝君はさっさと帰りたかったよね」
「…いや、別に予定はなかったからいいけど。驚いた」
「ふふ、私も驚いたわ」
「え?」
「見えなかった?教室でね、前原君と岡野さんが二人きりで楽しそうに話してたの」
「――ごめん、見えなかった」
「謝ることじゃないよ。ただ、だからその――ちょっと磯貝君にも付き合って貰うことにしちゃった」
「ああ、うん、そういうこと」
「内緒ね?」
「わかってるって」

 磯貝の返事に疑いの眼差しを向けることなく、片岡は素直にそれを信じたらしく「ありがとう」とお礼を言われてしまった。彼女が意味もなく自分を引っ張ってくるわけがないとはわかっていたが、自分の為ではなくクラスメートのささやかな恋の応援の為だったと理解してしまうと自然と肩の力が抜けてしまう。それが、落胆からくるものだということが、磯貝の中で羞恥心を突くのだけれど出来るだけ表情に浮かばないように、それだけを意識した。片岡は両脚で水をかきながら穏やかな笑みを口元に浮かべたままでいた。水に浸かれる気持ち良さか、友人の前途に祝福を期待してか、どうかただこの時間が心地よいからという理由も含んでいてくれたらと願うことを磯貝は止められなかった。
 好きなのかと聞かれれば、心の内では肯定するだろう。ただ気まずさが勝って言葉にして伝えることは出来そうになかった。E組にいることで負っている落ちこぼれの称号だとか、受験生という立場や学級委員という肩書き。恋愛よりも勉学を優先すべきだろうという言葉を耳にすることがあるが磯貝たちの場合は勉学の中に暗殺も放置できない比重を占めている。好きな人と結ばれたとして、卒業までに殺せんせーを暗殺できなければ地球ごと消し去られてしまう訳で。優先順位をふりわければ自然と後回しになってしまう磯貝の恋は、こうして放課後に二人きりという状況だというのに全く動き出す気配を見せない。片岡は、そんな男女の二人きりという状況を恋愛の好機と見て教室に入るのを避けたのに磯貝と二人きりになることにそんな要素があるとは微塵も思っていないのだろうかと、勝手な分析で落ち込んでしまう。

「――磯貝君?」
「…何?」
「そろそろ戻ろうか、もう暗くなってきたし」
「流石に前原たちも帰ってるか」
「たぶんね」

 プールから足を引き抜いて、タオルを持っていないことに気が付いた。片岡はハンカチで足についていた水滴を拭い、磯貝はその光景を凝視することに罪悪感を覚えまだ濡れたままの足に構わず靴下と靴を履き直してしまった。
 教室に戻ると、案の定もう誰もいなかった。自分たちの荷物を持ってさっさと校舎を出る。殺せんせーに遭遇しようものなら暗くなってから帰るのは危ないでしょうと怒られそうだ。最悪、こんな時間まで二人きりで何をしていたのだと下世話な想像を働かされてしまうかもしれない。

「あれ、一番星かしら」

 紫紺と橙色の混じりあった空の南東を片岡が指差した。そこには確かに青白い点が鎮座していて、周囲に同様の星が見つけられないことから一番星かもしれないと磯貝は頷いた。生憎、その星の名前を言い当てる知識は持ち合わせていなかった。
 片岡に「わかる?」と一番星を指差して尋ねれば、彼女は磯貝の腕を掴んだ時と同じような笑みを浮かべ、同じように人差し指を顔の前で立てていた。しかしそれの意味するところが今度の場合「静かに」ではなく「内緒」であることくらいは彼にもわかった。しかしその意図を測りあぐねている。

「ねえ磯貝君、夏はまだ始まったばかりだし、またこうして星を見る機会があるかもしれない。受験生の宿題にしては幼いかもだけど、夏休みに天体観測の宿題が出る可能性だってあるよね?だからさ、一緒に勉強しない?」
「勉強?」
「そう、星の勉強」
「あの星の名前を調べれば良いってことか」
「手始めはそれね」
「そっか、うーん。殺せんせーとか理科が得意な奴に聞くのは?」
「ダメよ」

 片岡の提案する「勉強」に異論を唱えることなく乗る方向で話を進めてしまっていることに磯貝は特に問題を感じなかった。だってやけに彼女が楽しそうに話をするから。夜空を指差して、本当はあの星の名前を知っているんじゃないのかと尋ねることが野暮以外の何物でもないように思えてくる。
 助っ人の申請は認められず、つまりこれは勝負なのだろうかと、それならば純粋に二人の力量比べの為に他者を排する必要があるのだなと磯貝が納得しかけたときだった。

「折角の天体観測だもの、二人きりの方がいいな」

 真面目な、他人に頼ることが得意ではなさそうな、そんな片岡が呟いた言葉に磯貝は信じられないと驚きで目を見張った。けれど一気に暗くなる宵の口では、磯貝の驚きは溶けるように飲み込まれてしまう。それは、とんとん拍子に進む話に気を緩めてしまった片岡の気恥ずかしげに赤く染まった頬に関しても同じことだった。
 ――天体博士になってしまうかもしれない。
 我ながら、高まった熱を逃がそうとくだらないことを考えている。けれど嘘ではないなとも思う。きっとこの夏、磯貝は馬鹿みたいに星について詳しくなってしまうに違いなかい。
 日が沈みきった帰り道は、昼間の熱の名残を差し引いても十分に暑かった。




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星を喰らう少年
Title by『告別』





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