席が隣というだけで、親しくなったわけではない。茅野は第三者に渚との関係を問われた時、ありふれた友だちという用語を用いながらも内心では自身でも説明しきれいない感情を持て余していた。
 きっと恋と呼んでもいいのだろう。茅野が渚に対して抱く感情は一概に括るならば恋愛感情の類だった。女の子同士であるならば、E組の誰かに打ち明けてみても良かったのかもしれない。他人の恋愛話を手土産に場を盛り上がる場は楽しいかもしれないが、悪意を以てそれを利用するような人間は此処にはいなかった。底辺であるが故の奇妙な結束力。それは殺センセーの暗殺を任された頃からより強固になったように思う。中学生の交友関係は狭く、部活動を禁止され本校舎に籍を置く生徒と友好的な関係を築くことが難しい以上同じ境遇にいる者たちが親しくなるのは自然なことだ。例えそれが異性であったとして、席が隣という起点は茅野と渚を結びつけるうえで非常に大きな意味を持っていた 。席替えという生徒の息抜きにしかならない一時の娯楽はE組には必要ないもので、まだE組に落ちて日の浅かった頃から茅野は卒業するまでこの席に座り続けるのだという暗い気持ちを抱きながら渚の横顔を盗み見ていたものだ。好き好んで落ちたわけではないクラスに馴染む以前なら、窓際に配されたのをこれ幸いと窓の外でも眺めていれば良かったというのに。思えばこの頃から、フレンドリーでもない渚の物静かな態度に、一方的な親しみやすさを抱いていたのかもしれない。当人は、きっと気付いていやしないだろうけれど。
 茅野が渚への気持ちに、最も簡潔な恋という文字を当て嵌めることに躊躇いを覚えるのは、少女漫画や恋愛ドラマの中に見られる胸のときめきや気恥ずかしさといった衝動に襲われたことがないこと。好きだからより傍にいたいという欲と、秘めた想いが見抜かれることへの恐怖から距離を取りたがる矛盾に頭を悩ませたことがないこと。ひとえに、渚といるときの彼女の気持ちが穏やか過ぎること、それが問題だった。
 誰よりも穏やかな気持ちにさせてくれるから。だからこの想いが恋なのだと声高に叫ぶことは出来ず。経験から答えを導き出せるわけもない。相談するには答えが自分の予想とかけ離れていた場合が恐ろしく、またE組という外枠が恋という感情をここに属する人間には不相応だと取り上げようとしているような、そんな気がした。
 けれど今、茅野は渚への想いを確かに恋だと名付けることにした。それは偶然指が触れ合ったとか、目線が絡まったとか、甘酸っぱさを覚える言葉を交わしたとか、そんな綺麗な理由ではなくて。茅野のことなど視界に入っていないであろう渚が他のクラスメートと楽しげに談笑している姿を見たからだった。物珍しい光景ではなかった。茅野の友人が隣席の渚だけではないように、彼にだって付き合う面子が彼女と似たり寄ったりだとしても親密さには個別の差があって当然なのだ。ましてや男子と女子では親しいグループの形成を共にすることは難しい。
 渚が話しているのは杉野とカルマで、それぞれよく一緒に行動しているのを見かける。帰り道や相手の予定に付き合っている姿も。どうやら今回も放課後にどこか寄って行こうかと相談しているらしい。カルマが突飛なことを言い出して、渚は呆れた顔、杉野は大袈裟に顔を崩して突っ込んでいる。その反応に満足したらしいカルマと、次いで湧く穏やかな雰囲気がその光景を自分の席に着いたまま眺めている茅野の胸をかきむしる。黒い気持ちがじわじわと心臓を覆い尽くしてしまうような感触が気持ち悪い。己の意思とは無関係に、しかし視覚と聴覚が拾う彼等の姿に確実に茅野の内側は攻撃されている様だった。

「――茅野?」

 不意に、茅野を視界の端に捉えた渚が訝しげに名前を呼ぶ。本当は何気なく通り過ぎてしまうだけだった筈の視線の動きが止まってしまったのは、今にも泣き出しそうな顔で此方を見ている彼女を見つけてしまったからだった。杉野たちに断りを入れるより先に、渚は机の合間を小走りに茅野の元へ駆けつけた。そして間近に彼女の顔を覗き込み、泣きそうにはなっているものの涙はまだ零れていないことに胸を撫で下ろしていた。

「何かあった?」

 首を傾げて、渚が問う。そんな仕草をされてしまうと、まるで女の子のようだわと茅野は声には出さずに微笑みを返そうとした。けれどそれが随分とぎこちないものになってしまったことは彼女自身気が付いていた。
 教室にはクラスメートがいて、けれど渚と茅野のやり取りに注目しているような人たちはいなかった。突然渚が輪から外れてしまったことに驚いて視線だけで彼を追い駆けていた杉野とカルマもその行き先が茅野だったということに納得して、今は視線を外していた。不愉快に腹を立てていないことが、彼等と渚との関係の良好を示していて、茅野の胸はまたずきんと痛んだ。そしてその身勝手さに、彼女はまた泣き出しそうだと瞳を伏せる。

「――ねえ渚、ずっと友だちでいてくれる?」
「……え?」
「私が凄く嫌な女の子になっちゃっても、もしも席が離れちゃったとしても、渚は私と友だちでいてくれる?」

 か細い声は、けれどしっかりと渚の耳にも届いたことだろう。渚にだけ、届けば良かった。これはきっと茅野の秘密の話。
 茅野は唐突に理解した。渚のことを好ましく思うこの気持ちは恋だと。そして、そのきっかけが胸の痛みと薄暗い感情に気付いてしまったからという事実が少し悲しかった。広がった感情の名前を誤魔化すことなんて出来なくて、ましてや消し去ることなんてより一層不可能なことのように思えた。
 渚はきっとE組のみんなのことが好きで、茅野も同じようにクラスメートたちを好いていた。けれどたったひとりだけその親愛からはみ出した彼の笑顔を見た瞬間、その笑顔を向けられている大好きな人たちを見つけた瞬間、茅野の心には確かなひびが入ってしまった。
 きっとこんな気持ちを嫉妬と呼ぶのだ。だから茅野は、今はまだ打ち明けることのできない本音を隠して渚に尋ねる。ずっとという言葉にひと時の保証を求める。そんな茅野の憶病さと狡賢さなど渚はきっと見抜けまい。見抜けたとして穿てないのが潮田渚の人間性だった。そんなところが好きなのだろうかと自問しても、この状況では答えなど導き出せそうになかった。

「茅野は嫌な女の子なんかじゃないと思うけど」
「ありがとう。でもね、これからのことなんてわからないでしょ。大好きな人たちのこと傷付けちゃうかもしれないんだもん」
「そんなことしないよ。茅野は、絶対しない」

 渚が真剣な瞳で茅野が描く嫉妬に落ちた自身の姿を否定してくれる。それが嬉しくて、心苦しかった。
 大好きなクラスメートたちをいつか渚と恋心を理由に傷付けてしまうかもしれなくて、その片鱗はこの瞬間に気付いてしまった。俯く茅野をどうにか励まそうとしてくれる渚の友情に出来るだけ応えたいと願いながら、友だちであることをいつか友だちでしかないと卑下するようになるのだろうか。
 ――苦しいなあ。
 泣き出したいと思う気持ちを湛えたまま、茅野はいい加減渚を杉野たちの方へ送り返さなければと先程のぎこちないものではなく普段通りの微笑みを浮かべようと呼吸を整える。
 苦しいけれど、それでもやはり渚が好きで、彼の笑顔を受け取れるみんなに、彼に笑顔を向けて貰えるみんなに、茅野だって大好きなみんなに嫉妬してしまうその事実に、彼女は心の中で「ごめんね」と謝った。



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嫉妬してたよ。君に笑いかけるみんな、私のだいすきなみんなに。
Title by『わたしのしるかぎりでは』





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