――春。新学期に貼り出された新しいクラス表に自分の名前を探しながら、朝練を終えてからバレー部の面子で固まっていた為に夜久は隣に立つ黒尾が小さく呟いた「よっしゃ」の一言を聞き逃さなかった。彼のクラスを尋ねるよりも自分の名前を見つけることを優先し、漸く発見した名前は三年五組の欄。思わず「あった」と漏らせば黒尾が「同じクラスだな」と返してきた。その声に胡乱な眼差しで見上げればとっくに自分の名前の幾分下に夜久の名前を見つけていたと得意気な顔の黒尾がいる。腹が立って、つい足を踏んづけてしまった。

「痛え!!」
「名前あったんなら教えろよ!」
「自分で見つけるのがお楽しみだろ?」
「高三にもなってクラス替えではしゃがねーよ!」

 夜久の主張に黒尾は怪訝だと眉を顰めた。どうやら彼は新学期とクラス替えに少々はしゃいでいたらしい。図体に似合わず子どもらしさを失っていないのだと自分で言ってしまうから、夜久は適当にその場をあしらってさっさと決まったばかりの教室に向かって歩き出した。当然のように、行き先が同じ黒尾は隣に並んで歩き出す。先に歩き出したはずなのに数秒と経たず 追いつかれたことに視界に入り込んだ黒尾の脚が語りかけてくる。歩幅が違うんだよ、と。またムカついたので背中を思いきり叩いてやった。それが、今年の四月の出来事。
 五月となりゴールデンウイークを終えてもまだ上旬。今度は中間テストを意識しなければならない時分、夜久は兎に角席替えをしたかった。名簿順通りの座席はか行とや行の間分黒尾との距離を遠ざけていて、それはちっとも悲しいことなんかじゃなかった。悲しいのは、前から二番目に座る黒尾が最後列に座る夜久にちょっかいばかり出すからクラスメイトに早々にバレー部コンビと括られてしまったことだ。どうせ移動教室も一緒だし、昼食も共にするけれど黒尾を原因に認知が深まると癪なのだ。やはりクラス替えなんて楽しみにするものじゃない。交友関係なんてそう劇的に変化することなどないのだから。
 しかしそういえば、黒尾はこのクラスに喜ばしいことがあるはずだと思い出す。何故か一カ月近く過ぎた今でもはっきりと夜久の耳元には掲示板に名前を見つけて呟かれた彼の喜びの声がこびりついている。
 ――好きな女子とでも同じクラスになったのか?
 なんてことを疑ってみたりもしたけれど、あまり恋バナに花を咲かせたこともなく相談もされないのに話を持ち掛ける夜久ではなかった。教室で女子を避けるでも避けられるでもなく用事がなければ近付かない、バレーを青春の中心に置いた普通の男子生徒にしか見えなかった。今更過ぎて、特別黒尾を観察してからの結論ではないけれど。たぶん、自分の視界に映り込む彼を繋ぎ合わせれば事足りるだろうと、夜久はそんな風に思っている。
 そんな、小さな引っ掛かりを知る由もない黒尾は夜久の前の席を無断で借用している。休み時間、ぼんやりしている間に机上のプリントに描かれた絵は恐らく猫だろうと予想できるレベルのお粗末さ。余白にすれば見逃すと思ったか、手の甲を抓ってやると大人しく此方も勝手に使っていた夜久のボールペンを筆箱に戻した。

「お前最近俺に対して色々雑じゃないか?」
「――?ずっとこんなもんだろ?」
「それはそれで問題だな」
「お前のちょっかいのが問題だよ。このプリント次提出じゃん。何油性で描いてんだよ…下手だし…」
「は?いやイケてるだろ、どう見ても猫だろ」

 若干前のめりに力説し始める黒尾を睨みつけて問題はそこじゃないことを訴える。直ぐに謝ってくる察しの良さは嫌いじゃないが、最悪彼のプリントをコピーすることになればその代金は遠慮なく請求させて貰おう。
 自己完結して、プリントを机の中にしまい次の授業の準備を始める夜久は完全に黒尾を無視している。無視という自覚もなく、用がないなら構う必要もないと雑な認識をしている。そんなぞんざいな態度に、折角前の席を陣取った黒尾が満足するはずがなく、しかし邪魔をすればまた怒らせてしまうので大人しく控え目に退屈を主張することにした。訴えるだけ、ただ指で机をトントンつつき続ける。そうしたらものの数秒で手に現国の教科書が落とされた。

「お前ほんとヒドいな…」
「鬱陶しいことすんな。ほら、いい加減席戻れ」
「ふーん」
「…何だよ」
「いや?大人しく自分の席に戻りますよっと」

 立ち上がった黒尾の含むような言い方に、もう少し素直に向かって来いと思わずにはいられない。用がないなら来るなとは言わないから、稚拙な振る舞いより言葉を差し出すべきだ。そう、疲労と呆れを吐き出すために瞳を伏せて深く息を吸い込んだ瞬間、ふと落ちた影と掛かる息に瞬くのと同時に唇に何かが触れた。それが黒尾の唇だとは眼前に彼の顔が広がったこと、その口端がいやらしく釣り上がったことで直ぐに理解した。だがそれ以外は脳みそが完全に混乱をきたして目を見開くしかできなかった。
 ――キス?いやいやないだろそれはない。
 事故と呼ぶには接近と感触が意図的だった。じゃれつきと捨てるには位置が致命的で。順序を間違えた告白かとときめくには相手が悪すぎた。男同士、部活の仲間、クラスメイト、友だち。どれを取っていつの間に自分と黒尾はキスをする関係になってしまったのか。当然なった記憶はない。これまでもこれからも夜久にとって黒尾は友人の枠に収まり続けるはずだった。

「…夜久?大丈夫か?」
「――念の為聞くけど今の何?」
「キス」
「事故?」
「わざと」
「何で?」
「好きだから」
「どういう意味で?」
「性的な意味で」
「………」
「俺はずっとお前のことそういう意味で好きだったから、今年同じクラスになれて結構舞い上がってたんだけどお前冷たいからさ、ちょっとイラっとした」
「ごめん俺の非が見当たらない」
「それもそうだな」

 冷静になろうと黒尾から目を逸らしたまま最低限の情報を集めようとした夜久に、黒尾はとんでもない告白を何てことはないと平生通りの顔で告げた。夜久が打ち消したばかりの恋愛感情、察しろという方が難しい。想像力を振り絞ったとして、黒尾は部活の後輩でもある幼馴染を最も大切にするとしか思えないだろう。だって黒尾は、彼に対して面倒見が良すぎる。
 ――ん?
 そこで漸く違和感に辿り着く。黒尾は部長を任されるだけあって元来それなりに面倒見のいい人間ではなかったか。付き合いの長さ故、幼馴染とのやり取りが親密に映るだけの話。そうすると、ここ一カ月辺りやたらと自分の手を煩わせていた黒尾の言動の下心が姿を現しそうで夜久は慌てて記憶を掘り返すのを止めようとした。けれどまた蘇る、あの黒尾の「よっしゃ」の呟きの意味だって今ならはっきりわかってしまう。あれは、たぶんきっと。自分と同じクラスになれたことを喜ぶ声だった。さっさと教えてくれなかったのは、夜久の反応を見たかったのだ。
 引っかかっていた疑問が解消されると途端に恥ずかしさが湧き上がってくる。俯いてしまった夜久の仕草をまだ混乱していると捉えた黒尾はチャイムが鳴ったこともあり自分の席に戻るしかない。

「じゃあ次の休み時間な」
「来んの?」
「そりゃあ、今押してかないとまた雑に扱われちゃたまんないからな」
「意味わかんないんですけど…。てかそうだよお前教室で何てことしてくれてんだよ!」
「大丈夫だって。俺とお前が何してても流されるようにクラスの連中に慣れて貰おうと散々ちょっかい出してたんだぜ?」
「誇らしげな顔やめろムカつく!」
「はいはい、じゃあな」

 僅か数メートル先の席、夜久に背を向けて腰を下ろした黒尾にどうか次の授業中は絶対に振り向かないでくれと願わずにはいられない。いつもなら前を向けと叱責の意を含めて顔を顰めてやれば良かった。けれど今日はもうそんなことできない。最悪、これからずっと。遅いとはわかっているが袖口で唇を押さえる。自分は黒尾を恋愛対象と見たことなんかない。見るはずがない。何度も胸中で唱えながら、それでも唇に残った感触は消えず心音は速まってきている。
 深呼吸、落ちる影、掛かる二酸化炭素。混ざり合った二人分の呼吸とそれからキス。繰り返し蘇る映像に夜久はキツく目を瞑る。今頃黒尾は人の感情を乱しておきながらしたり顔で座っているんだろう。そしてこの授業が終わったら本当に何事もなかったかのようにやって来るに違いない。 一向に振り向く気配のない背中に、夜久は自身の願いを棚に上げて腹立たしさを覚える。そして決意した。絶対に、たとえ卒業を迎えたって黒尾と同じクラスになれて良かったなんて言ってやらないのだと。実際どう思っているかなんて、そんなことは胸の内にこっそりしまっておけば良いのだ。



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深呼吸ひとつ、君の二酸化炭素と混ざる
Title by『誰そ彼


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