「無精者め」と奥村雪男を捕まえて言い放つのは、きっとこの世界中を探しても二人ほどしかいないだろう。霧隠シュラと、奥村燐。しかし前者は雪男を付き合いの長さから案じこそすれ面倒を見る気は更々ないのか警告はするが説教はしない。雪男がどんな人間であるかは言葉にしたところで意味がなく、修正するにもきっかけがなければ難しい。人間そうそう変わりはしないと割り切っているシュラは雪男に関してはノータッチだ。不摂生で倒れようが、生きているならばそれでいい。
 そうなると、雪男の面倒は彼の双子の兄でもある燐の手に一手に託されることになる。周囲の人間は口を揃えて言うだろう。雪男が燐の面倒を見ているの間違いではないのかと。幼い頃の弱さ故の劣等感から這い出す為に雪男が積んだ努力は並々ならぬものがあるだろう。しかしそれはあくまで雪男自身の土俵の話で、燐は感服こそすれそこに自分を立たせて羨望の念を抱いたりは決してしない。兄という立場は燐をどこまでも兄として雪男の前に立たせている。だからいくら雪男が世間の常識に倣って理知的に大人びた言動によって年齢にそぐわない立場を得、尊重されていたとしても弟である以上彼は必然として燐の兄という立場の下に潜り込まされてしまうのである。
 雪男が一日何時間も机に齧りつくことを苦ともせず、仕事とあれば何日も眠らず動き回るような無茶をしでかすようになってしまったの根底に、確かに燐は無関係とは言えない。祓魔師になると決めたその日から、雪男は兄に秘密を持つ身となった。当時まだ何も見えていなかった兄に、見えていることが優位性を示すとは思わなかったけれど、燐には見えていないものが自分には見えていると意識しなかったかといえば嘘になる。そうでもしなければ、見たくもないものを見なければならない苦しみに耐えられるはずがなかったのだ。
 腹の虫が執拗に雪男に栄養分の接種を促す。脳は少し手こずっている問題への閃きが落ちて来そうな前兆に机を離れるなと訴える。脳と胃は一人の人間の中で別々に好き勝手動き回る器官なのだろうか。思案して、雪男はいつだって脳の味方をする。本能と理性ならば、雪男は迷うことなく理性を取るだろう。そして理性とはいつだって正しい答えを導き出せるものと盲信している。
 そしてそんな雪男の歩みに異を唱えるように立ち塞がるのはまさしく本能を優先する燐だった。成績優秀と看板を背負ってもなお休日に机に向かっている雪男と、問題児で基礎学力すら覚束ない燐。授業外での自主学習を要しているのは間違いなく燐の方である筈が、彼は朝起きてからクロを引き連れて暫く外出し、帰って来たと思ったら雪男が買ってきていた漫画雑誌をベッドに横になりながら読み耽っていた。時折遠慮なく零れる笑い声や、感動しているのか鼻を啜る音に集中力を乱されることはないが、憮然としない思いがあるのもまた事実だ。どうせテスト前に泣きつかれるのは自分なのに、何故燐を注意しようとしないのか。言うだけ無駄だと知っているから。燐の性格が土壇場にならないと集中力を発揮しないからか。面倒事には積極的に首を突っ込んでいくというのに義務に対してはどこまでも自己の尊重を主張する。どうも表現が刺々しくなってしまうことに、雪男も戸惑っている。難関となっていた問題を突破して、漸く次の問題に進めると思った矢先に雪男はまた手を止めてうんうんと悩みだす。
 好きだとか嫌いだとか、そんな次元で奥村雪男にとっての奥村燐を語ろうとする時点で間違っている。双子だからというのも強引だが、雪男にとって燐はどう足掻いても切り離すことの出来ない存在だった。彼に宿る力を恐ろしいと感じる。危険だと感じる。誰かを傷付けるような過ちを犯す前に、罪人と裁かれる前にどうか自分からその威勢のいい刀を降ろして欲しい。それを願うのは、兄の身の安全の為であるとばかり思っていた。どれだけ語気を荒げても、それは無自覚に無神経な兄の言動が癪だっただけなのだと。
 ――そう、思っていたかったのだけれど。
 雪男は段々と自覚する。憧れていた時期は、燐の泣かない強さにあった。雪男が怖いと思う物に怖じない燐が格好良かった。養父に示された道はただ雪男が望んだ強さにのみ繋がっているのかと思った。あの優しい養父が、そんな甘ったれを許してくれるはずがなかったというのに。結果として、雪男は祓魔師として強く、優秀に育った。それは泣かない強さではなく、泣けない強情という虚勢だった。泣けることも強さだと理解するには遅かった。要するに、自分自身の心の殻を突き破って進むだけの度胸がなかったのだと雪男は気が付いた。今更だった。
 何歩分も遅れて、燐も祓魔師になるという意志を持って雪男と同じ舞台によじ登って来た。正直怖かった。泣いてしまえるかもしれないと思った。これでもし、また兄の背中に隠れるような弱さが浮かび上がってきたらどうしようと震えた。知識と技術は時間と経験がそれらを充足したものに導いてくれる。それを得る為に、雪男は内側にいる人たちを倣い努力してきた。しかし燐は、下準備もなく外へと飛び出そうとする。だから、雪男も意地になって兄を繋ぎ止めようとする。組織に、人間に、或いは弟である自分に。双子なのだ。根の我儘が共通していないだなんて、誰にも言える筈がなかった。
 昼前からずっと勉強漬けの雪男の机上には大量の問題集と参考書。祓魔師としての資料もあれば学生としてのものもある。二足の草鞋と窮状を訴えるには、雪男の中ではしっかりと比重に偏りを持って落ち着いてしまっている。それでも絶対に捨てることの出来ないものが日常だ。今も、昼間にただの成績優秀な学生として校舎を歩けば悪魔だとかサタンだとかその息子が尻尾を生やして同じ屋根の下で息をしていることなどまるで知る由もない同年代の人間が青春を謳歌している。それを好い気なものだと気分を害したりはしない。自分だって、見たくないと思った時期がある。環境が環境だった所為で、それほど長くは悩んでもいられなかったけれど。
 それでも、見えてしまった以上雪男は現実を起点とした物の考え方しか出来ない。だから彼は手にした銃をどこまでも武器として使いこなす。こんなもので何が出来るだなんて疑ってしまえば、雪男にはもう何もない。無力さを嘆いてしまえば、きっと兄が迎えに来てしまう。どこまでも尊大に兄として、突き放したとしても彼は自分の前に現れるのだ。雪男を甘やかす以外の選択肢を携えもしないまま。
 いつの間にか部屋に暗がりが広がっている。どうやら太陽は沈んでしまったようだ。手元の視界も、ぼんやりとしている間に閉ざされてしまった。もう暫くじっと目を凝らしていれば慣れるかもしれないがそれならばさっさと部屋の明かりを点けた方が雪男の視力的な意味でも無難だ。数時間ぶりに立ちあがれば流石に尻が痛い。兄もいるならば電気くらい点けてくれれば良いのにと振り返れば、ベッドに燐の気配はなかった。一体いつ移動したのか全く記憶にない。これでは二人同室で暮らしている意味がないなと己を叱責する。日頃の感覚を頼りにベッドに向かい腰を下ろせば、もうシーツは冷たくなっていて、燐がこの部屋を出てからだいぶ時間が経っていることを教えてくれた。
 燐が部屋を出たことに気付かないほどに意識が散漫だったのか。雪男の場合それは大抵寝不足による疲労から訪れる。そして自分は現在ベッドに座っている。途端に湧き上がる誘惑に身を任せて雪男がもう今日は眠ってしまおうかと瞼を降ろした瞬間、ばたばたと騒がしい足音が近づいてきて部屋のドアを乱暴に開けた。

「おい雪男、夕飯――って何だお前もう寝るのかよ。飯は!?」
「……眠たい」
「いや、それでも飯は食え!勉強しながらずっと腹鳴らしやがってなんか作れって催促してんのかと思ったぞ」
「そんなつもりじゃなかったよ…」
「はいはいそうだろうよ。お前他人の手を煩わせるとか嫌いだもんな。そんでもって自分の手も煩わせんの大嫌いだもんな。でも今は起きて飯を食え。冷めるだろ」

 兄からの叱るような促しに、雪男はしぶしぶベッドに沈ませかけた身体を起き上がらせて立ち上がった。一度眠れると思った意識は急激にその回転を鈍らせている。そんな様子を珍しそうに眺めながらも何も言わない燐はやはり雪男の兄だった。すれ違いざまに「夕飯なに?」と尋ねれば「肉じゃが」と返ってくる。本当に、どこに嫁に出しても恥ずかしくない味なのだろう。けれど、燐がお嫁に行ってしまえば自分をこうして叩き起こしてでも食事を摂らせようとする存在はいなくなってしまうだろう。何せ最大の警報である雪男自身の身体の要望さえ彼ははねのけてしまうのだ。
 だから願わくば、いつまでも兄が自分に夕飯を作ってくれますように。そんなことを願いながら箸を手に取る雪男も結局はどこまでも弟でしかない。そして雪男のこんな願いを燐が聞いたら、呆れたように眉を寄せながら言うだろう。「この無精者め」と。
 「いつまでも甘やかしてやると思うなよ」と言いきれない、それが燐の弱さだった。



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憧れの彼には血肉がある
Title by『ハルシアン』




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