昼休み、階段の踊り場は思いの外閑散としていてその隅を拠点に構えた日向の作戦会議は誰の邪魔を受けることもなく恙なく進行していた。壁に向かって、コートの向こう側を見据えるが如く真剣な眼差しをしている新入生に声を掛ける人間はいなかった。時は五月の半ば。そろそろ中間考査だな、なんて学生生活の本分を勉学に見出している優等生辺りは意識し始める時期だった。
 ターゲットは三階、廊下の端から四番目の教室。どちらの端からかは滅多にその場に上らないからわからない。いやしかし恐らく階段を上って右から四番目だろう。自信はない。取りあえず四番目だ。それさえわかっていればどうにでもなる。
 さしあたって現状確認。思いつきの行き当たりばったりとは違うのだが頭を使うのは日向の性分ではない。反射と速攻で何事も身体の咄嗟の動きに任せて生きている。それで時折文字通りの痛い目にあったりするのだが、原因を突き詰めようとしないため今の所改善の余地は見られない。
 中学三年の夏、日向のバレーボール人生の岐路ともいえた運命の試合で学んだこと。独りじゃだめだ。独りじゃ勝てない。だから仲間を徴兵することにした。先輩だけれど、ノリは良い方だし、テンションが似ているとよく言われるので無碍には扱われないと信じたい。だって日向は、可愛い可愛い後輩なのだから。二年生の教室まで押しかけて先輩お願い、と小首を傾げたら気持ち悪いぞと額に手刀を落とされてしまったけれど、エースのスパイクを顔面に喰らった時に比べたら愛情を感じるくらいの弱さだった。こういうのが上級生の愛なのだろうかと、最近漸く日向は学び始めていた。正しいかどうかはさておいて。
 日向のお願いという名の徴兵要請を受けた西谷は、わざわざ二年の教室にやって来た日向に一年と二年の階を繋ぐ階段の踊り場、基日向の作戦本部に連れ込まれ小さく体育座りをしながら膝を突き合わせてふんふんと彼の計画に耳を傾けた。そして話を聞き終えると二つ返事で日向に加担することを了承した。途端、瞳を輝かせる可愛い後輩に胸を張ってふんぞり返ってやる。先輩と憧憬を集めることに関して言えば西谷はその小柄な身長の所為も相俟ってちょっとした思い入れがあったりする。同級生の田中とはその辺りで時折張り合ってみたり。それすらも最上級生からすれば可愛い後輩のじゃれ合いにしか映らないようだ。田中に可愛いという形容詞を充てるだなんて後輩一同からすれば信じられない話だが。

「俺旭さんでも良かったな」
「えーそれじゃダメですよ。行くにしたって来月でしょ」
「うん、ダメだな。だってその原理で行くと日向は影山のとこ行かなきゃだ」
「絶対嫌です。そんなことしたらぶっ飛ばされるに決まってる!」

 こそこそと囁き合いながら、その影山にぶっ飛ばされる場面を想像して落ち込んでしまったらしい日向がしゅんと落ち込んでしまったので西谷は慌てて背中を叩いて檄を飛ばしてやる。嫌われているとまでは思っていないようだが、日向は影山に自分が好かれているとは微塵も思っていないようで。西谷からすればそんなことないぞと本能的に理解して後輩に教えてやりたいのだが何分本能的な直感が根拠の為言葉にしようとすると上手く説明できない。やっとのことで影山と月島の普段のやりとりを見てみれば幾分マシじゃないかとあまり自信にもならない最底辺しか例示してやれないのだ。
 今回の日向の言う作戦だって、最初は影山とやればいいじゃないかと思ったものだ。だが絵面を想像して直ぐに自分がやらねばという使命感を抱いた。だって影山はセッターだし。身長高いし。駄目だ。同じ理由で月島も駄目だ。後輩は可愛いものだけれど、可愛げのない後輩というものは確かに存在する。自分より十センチは身長の高い後輩がそれにあたると西谷は勝手に思っている。なんと今年の一年、日向以外全員該当するという嘆かわしい事態だ。思い出して、今度は西谷が落ち込み始めるから、慌てて日向が背中を叩いて檄を飛ばしてきた。先輩相手に力を籠めすぎている所は不問にしておいてやろう。気遣いの出来る後輩を持って幸せだ。


 三年生の教室に入る機会なんて滅多にない。進級と入学をしてからまだ一ヶ月と少ししか経っていないことと、西谷の場合暫くエースとの確執があったばかりに気にはしても突撃したりはしなかった。日向の場合は単純に、入部を懸けて休み時間も忙しい時期があったので、先輩に興味津々になっている暇なんてなかった。優しい二人の先輩には何かと迷惑を掛けた自覚は後からじわじわと湧き上がり、それから大好きだなあと頬を綻ばせたりして。結果として、それ以降も自分が迷惑を掛ける頻度は日に日に増えているような気がして、改めてお礼なんて早々口にできなくなってしまった。
 だけども時には伝えてみたくもなるだろう。
 教頭の頭にぶつけてしまったバレーボールを拾ってくれたり、呆れたように謝ってきなさいと促しながらも大地には内緒にしといてやるからと頭を撫でられた手の温かさ。上達しないレシーブと顔面で受けたスパイクの勢いに倒された自分の額を冷やしてくれたタオルの冷たさも心配そうに覗き込んでくれる顔も。中学三年間、見つめる背中もなしに独りで走って来た日向には初めてのことで、温かくも衝撃的なものばかりだった。
 恰幅の良いママさんバレーの面子より、中学時代の女子バレー部の人たちよりずっと柔らかく優しく映ったのは何故だろう。理由はよくわからないけれど、そんな人に対して日向が抱いた印象はちょっとばかし、高校三年生の男子に対しては不釣り合いな言葉だった。けれど、西谷は思い切り頷いてその通りだと日向に同意してくれた。そして後輩として、礼を伝えることも何ら不自然ではないと肯定してくれた。手段と文句は、まあちょっとした遊び心だろうと笑って背を押した。あの人には、自分も旭との件で随分と心労を掛けてしまったからと反省もしているのだ。
 こそこそと階段を三階までのぼり、標的に見つからないようにと身を屈めて廊下を進む。逆に悪目立ちしていることにはちっとも気付かない。熱中すると他が見えなくなる子ども気質な二人が集まってしまった時点で手遅れだった。目的の教室まで辿り着き、後ろのドアから中を覗き込む。重要人物は、昼食を食べ終わってから同じクラスの沢村と雑談に興じているらしい。
 これならば背後を取れる。椅子に座って黒板の方を向いている標的と、廊下に背を向けている沢村には日向たちは完全に死角にいるのだ。何か用かと声を掛けようとする上級生たちに人差し指だけで要求を突き付けてそっと侵入を果たす。日向の手に握られている物を目にした人間は益々不思議そうに首を傾げているが何やら真剣な顔をしている下級生の動向を見守っている。このクラスの人たちはどうやら優しい性分の人間が集まっているらしい。
 あと数歩という所に来て一度歩を止める。目を瞑って深呼吸、ちらりと背後を確認して西谷と視線を合わせて最後の確認。彼は頷いてよし行けと言った。それを合図に、日向は思い切り標的の人物に飛びかかった。右手に持ったカーネーションだけは駄目にしないようにと気を配りながら。
 母の日には、カーネーションを贈るものなのだ。


 「お母さんいつもありがとうございます!」と、そんな大声と共に頭上から後輩の強襲を受けることになった菅原は、いつも通り柔らかい笑顔で日向から一輪のカーネーションを受け取った。突然とびかかったりして危ないだろうと日向と制止しなかった西谷を三年四組の教室の後ろに正座させてお説教している沢村に悪気があったわけじゃないんだから良いじゃないかと仲裁を入れる。菅原の望んでいたそもそも自分は母親ではないという指摘はして貰えないようなので。
 可愛い後輩二人を、昼休みが終わるからとそれぞれの教室に戻るよう送り出してからその旨を問いただしてみれば沢村は今気が付いたと言わんばかりの反応で。

「でもスガは確かにお母さんっぽいよ。後輩たちには特に」

 「でも母の日は今日じゃないよなあ」と呆れたように笑い自分の席に戻ってしまった沢村に、菅原は小さく「お父さんじゃないのか」とだけ呟いて、受け取ってしまったカーネーションを見つめて先程飲み終わったペットボトルに水を入れて挿しておこうとチャイムが鳴る前にといそいそと教室を後にした。その後ろ姿をこっそり見送っていた沢村に、そういう所がお母さんみたいなのだと微笑ましく思われていたことには気が付かないまま。


 放課後。昼休みに結託して一仕事を終えた日向と西谷は妙な連帯感に結ばれていて、それを訝しんだ田中に事の一部始終を語ってやれば何故かひどく落胆された。田中の後ろで同様に話を聞いていた影山を初め一年生は大体彼と似たようなリアクションをしている。どうしたと日向と西谷が首を傾げた瞬間、一年生三人プラス二年生一人が声を揃えて叫んだ。

「――誘えよ!!」

 その日から暫く、菅原のあだ名がお母さんになったことは余談である。



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愛しなくては愛せない
Title by『ダボスへ』




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