※高校生

 最底辺を維持しようとするのは向上心の無さではなく対抗心の無さだった。誰に頭を押さえつけられたとしてもこれ以下はないのだという我慢が利く場所から動けない。理想や憧れはいつだって溢れているけれど、見上げるばかりの光は結局は遠くにしかない。触れたいなんて思わない。ただこの想いの在り処だけは秘密のまま、誰にも踏みにじって欲しくはなかった。
 桜乃がリョーマに面と向かって言える言葉なんていつだってありふれた日常会話の域を出ない。挨拶出来ただけで舞い上がれる程度の恋が、実はもう何年も温めている気持ちだなんて、何も知らない人間からすれば信じられないだろう。浮き沈みが激しいから仕方ないのだ。悪いことではないでしょうと桜乃が微笑むと、年来の友人である朋香は欲が無さ過ぎると唇を尖らせる。その仕草に、暗にこれ以上は言わないけれど、と示されているから、桜乃もこれ以上の言い訳を重ねることはしない。本当は、口を酸っぱくしてでも言いたいことがあるとは知っている。だって何も変わらないから。断れなかった呼び出しや恋文や贈り物の仲介も、朋香だったら断れるのだろうなあと他人事のように考えながら首を縦に振り続けた日々がある。その度に不快そうに眉を顰めながら、桜乃の言葉に従ってくれたリョーマの心底が、断っても彼女は相手に上手く言い訳することも出来ずに責められるだろうからという伝わる当てもない好意だとは、きっと誰も気付かない。いつだってもどかしいと詰られるのは桜乃で、その恋をないがしろに踏みつけられるのも桜乃だった。ただ、その恋の相手であるリョーマの気持ちを踏みつけていたのも桜乃で、どうしてか擦れ違うばかりの二人を取り持つキューピッドなんていないから時間ばかりが過ぎて行く。
 追い駆けて、見つめるだけの恋で桜乃が得たものといえばテニスの実力ぐらいだろうか。それから自業自得の忍耐力。高校に進学してもテニス部に入部して、そうしたら一年の中ではなかなかの実力者扱いをされて、桜乃自身目を剥いてしまった。基本的に、彼女の自分のテニスの力量への認識はあの、初めてテニスを始めた春から殆ど動いてはいないのだから当然だ。あの頃よりは上手くなったよね。そのあの頃が出発地点で、正しいラケットの握り方すら知らなかった頃だというのは逆に自分に甘いのかもしれない。どれだけ試合に勝利しても自信らしい自信すら身に着かなくて。それでも中学最後の夏に負けた時は悔しくて涙したりもしたのだ。桜乃自身驚いて拭えずにいたそれを、同じくらい驚いたように見詰めて、不器用に拭った後わざわざラケットで頭をぽん、と叩いてくれたリョーマへの恋だけは、あの初めての春からずっと大きく育ってしまったのだと、自覚はしている。

「竜崎」
「……なあに?」
「今日、一緒に帰れる?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ部活終ったら正門で待ってて」
「わかった」

 年々なのか、日に日になのか。リョーマが桜乃に話しかける度に寄せられる眉の意味を、彼女は気に留めなくなった。彼の前で委縮しなくなった。それは、その先を諦めたから。不思議だと思う。結ばれる恋の結末を諦めることは出来るのに、恋そのものを捨てることだけはどうしても出来なかった。
 恋の衝動を通り過ぎて、嫋やかに微笑む桜乃の全てがリョーマにはもどかしいのだと。それが言えていれば、もうとっくに自分たちは恋人というありふれた枠に収まっていた筈なのに。誰の所為か。たぶん、自分の所為なのだろう。反省はするけれど、己の行動を振り返るのは、いつだって過去になってからだから、どうしようもない。テニスさえあれば生きていけると思っていた時期が、確かにあったのだ。それ以外に注ぐ熱など持ち合わせていないとも思っていた。例えば、恋愛だとか。だから顧みなかった。自分を必死に追いかけてくる少女の存在も、淡い水膜にすぐ瞳を揺らしてしまう弱虫な少女の気持ちなど、察する気すらなかった。
 付き合ってもいない男女が、高校生にもなって一緒に待ち合わせてまで下校するのはおかしい。リョーマは部活の先輩に、桜乃は朋香に別々の場所で同じ反応を受け取った。でも、悪いことではないでしょう。いつからか、桜乃の口癖になった言い訳に、朋香は何も言わない代わりに勢いよく抱き着いて、「馬鹿」と一言言い残して先に帰ってしまった。優しい友人を持ったものだ。帰り支度を整えながら思う。言葉には出来ない。桜乃には、言葉に出来ないことが多すぎて、困るのだ。恋も、感謝も。そういえば、今日は女子テニス部は部活がないのだともリョーマに言えなかった。だから、こうして教室で朋香と話しながら男子テニス部が部活を終える時間まで待っていた。そろそろ時間だと、彼が到着するより先に正門で待っていれば数分と待たずに怒ったように顔を顰めたリョーマがやって来たから、桜乃はまた最近お決まりとなった曖昧な笑みで出迎えた。

「お疲れ様」
「…部活ないならそう言ってくれればよかったじゃん」
「何で?」
「だって部活ないなら早く帰れたでしょ」
「でも私、リョーマ君と一緒に帰りたかったよ?」

 こういう時、「好き」と伝えることを諦めた唇はそれ以外ならば案外すんなりと素直な気持ちを吐き出すらしい。虚をつかれたように瞳を見開いたリョーマは、すぐにまだ納得行かないようで目を細めてしまった。桜乃の言葉に反応らしい反応を示したり、そもそも彼から帰りの誘いを掛けること自体、いつかからの大した進歩だったのに。何故か桜乃は気付かない。気付いたら、きっと期待してしまうから、最底辺に縋ろうと無意識に視線を下げるのだ。

「竜崎は、何でそうやって俺に都合のいい行動取るの?」
「……?」
「俺だって男だからさ、馬鹿みたいに嬉しくなったりするって、知ってた?」
「リョーマく…」
「なのに何でか、中学の頃の方が竜崎とは近かったような気がする」
「それは、」
「嫌いになったなら、切り捨てれば良いじゃんか」

 何も、言ってくれない彼女が憎い。今、何も気持ちを纏めないままに口を開こうとする彼女を遮って喋り続けたのは自分だけれど。切り捨てろと言ったって、距離と詰めようと躍起になり始めたのも自分の方だと、もうリョーマは随分昔に気付いていたのだ。同じように、桜乃が自分を見つめる瞳に浮かんだ熱が遠くなってしまったことにも、薄々感づいていた。見えない壁の存在を疑って、それだけで好きの一言が言えなくなるのだから、自分も大概臆病だったと、リョーマは何度も自嘲してきた。桜乃が俯いて自己嫌悪した回数よりは少なくとも。
 言葉を見つけられない桜乃は、ただ視線を逸らすことが出来ないまま。早く俯いて、現在位置を振り返らなければ何かが溢れてしまう。そう焦るのに、ここで視線すら逸らしたら、きっと自分はリョーマを傷付ける。それは怖い。嫌だ。ならば、どうしよう。

「俺、竜崎が好き」

 ぐるぐると廻る思考が、一気に沈静化した。追い詰めるようにリョーマが放った言葉は、いつかの自分が夢見たものだったのに。今は喜び以外の感情が混ざり合った涙が流れるのは何故だろう。
 ――ねえリョーマ君、私貴方が思ってるよりずっと駄目な人間なんだよ。色んなことがへたっぴで、周りにいるどんな人よりも劣っている気がして、俯いて、そんな自分を許してあげたくて、最底辺に留まっていれば仕方ないって言葉を使って良いから、何も期待しちゃいけないって決めつけて、私はこんなにもリョーマ君から離れてしまったんだよ。
 言い切った言葉が、どれだけ音となってリョーマの耳朶に届いたのか、嗚咽に震える桜乃には分からなくて。それでも、桜乃を好きだと間合いを詰めて抱き締めた感触が、数十分前に親友から受けた抱擁とは何もかもが違って思えて、結局自分はリョーマとこうして触れ合うことを望んでいたのだと現実を突きつけられた気がしてしまう。やはり中途半端だと、自己嫌悪に再び溢れる涙がリョーマの制服の肩に落ちる。
 こんな底辺にいる駄目な自分を好きだと言ってくれるリョーマのことがわからない。弱々しく押し返そうと彼の身体を押しても、より強い力で引き寄せられるばかりで意味がない。
 ――捨てて置くべきだった。
 出来ないと知っていた。仕舞っておくだけなら許されると信じていた。だけどそれすら、間違いだったのかもしれない。触れ合った熱を解くことのできない弱さを詰りながら、リョーマの背におずおずと回した腕が拒まれることはやはりなくて。
 ――駄目な女なんだよ、私。
 何度唱えても、きっと彼はこの腕を離しはしないのだろう。ならば、どうか愛して。久方ぶりの我儘は、やはり上手く言葉にすることが出来なかった。



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一緒に駄目になろう
Title by『云々
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