目の前でぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、それでも嗚咽だけは堪えようと唇を噛みしめている喜界島もがなに、球磨川禊はその理由が思い当たらずに、表情には困惑すら浮かべずに首を傾げた。

「ねえ禊ちゃん、命ってひとつしかないんだよ」

 泣きだす直前に喜界島が悲しげに呟いた言葉。そんなことは当たり前だろうと頷いた球磨川に、彼女は何もわかっていないと否定をひとつ。そうして溢れだした涙は、やはり球磨川が原因なのだろう。本人だって、それくらいの検討はつけられる。ただ、自分の何が、何所が、彼女の心を痛ませたのか。それが分からないから、球磨川はこれまでの記憶を意図して辿る。でないと、気紛れな自分は直ぐに色々なことをどうでも良いと投げ出してしまうだろうから。


 生徒会の仕事量は何かと多いが、金銭関係となれば喜界島もがながその大半を担当することになる。会長であるめだかの感覚のずれを除いても、学校という組織を行き交う金銭の額は大きい。それが分担して処理できるほど独立してはいない為、仕事量が多く映ったとしても速度と正確性の面から見て結局は彼女ひとりに任せた方がよほど効率的なのだ。
 今年度前期分の部活動の予算と、その予算から前期に出費された額を計上して後期の予算編成をする。その為に各部活動に前期の決算書を提出するようにと通知したものの案の定いくつかの部活は締め切りを忘れているのか、正しく連絡が行き渡っていないのか必要書類が提出されていなかった。義務を果たせないのなら予算なんてくれてやるものかと思うものの、自身も水泳部に所属しかつ守銭奴である喜界島は予算の重要性を身に染みて理解している。作業が切羽詰まっている訳でもないのだからと生徒会室を出て未提出の部活に催促をしに行こうと歩き出した。その際、何故か球磨川が一緒に行きたいと言い出したので二つ返事で頷いて、まずは野球部からと校庭に向かったのだ。
 球磨川の手が空いているのなら、最初から彼にひとりで行ってもらえば良かったのだが、一般生徒からすればまだ彼は畏怖と侮蔑の対象であろうから、可哀相かなと思ったのだ。どちらかといえば、一般生徒の方が。会長であるめだかは阿久根と別の業務に当たっていて生徒会室には不在、善吉はこれから日課である目安箱の回収という仕事があった為、自然と球磨川と喜界島が二人きりという状況が生まれて行った。 野球部に着いて、書類の提出を促すまでは良かった。直ぐには無理だから明日までには必ず提出するという約束を取り付けた。ちらちらと喜界島の背後に立つ球磨川の様子を不安げに伺っている部員の様子にはやはりと納得しながらもフォローする必要はあるまいと無視を決め込んだ。球磨川とて生徒会として来ているのだから何かされる心配もないというのに。
 そして次の場所に向かおうかと再び並んで歩き出した瞬間、野球部員の打った打球がライナーで喜界島の後頭部にヒットした。全力で打ったわけではなかったが勢いはそれなりにある。前に転んでしまった喜界島と、何が起こったのか理解できない球磨川。ぽてんと転がったボールを見て漸く自体を把握する。次いで送られた冷ややかな視線に、野球部は喜界島が心配なものの委縮してしまい近付いて手当てすることも出来ないでいた。
 のろのろと起き上がった喜界島が後頭部に手を当ててみても結んだ髪の上からでは瘤が出来ているのかどうかすらわからない。それよりも、前に転んでしまった際に擦り剥いてしまったらしい両膝の方がじくじくと痛みを放っていて、喜界島の眼尻には涙が浮かぶ。立ち上がれば重力に従いゆっくりと滲んでいた血が足を伝って落ちて行く。このままでは靴下が汚れてしまうが今は痛みで膝を曲げて靴下を脱ぐなんて行為をしたくはなかった。

『大丈夫?』

 気遣う言葉と共に、喜界島の足元にしゃがみ込んだ球磨川が右手で彼女の左膝に触れ、傷口を押してするりと流れた血を追いかける。くすぐるような感触に、反射的に背筋が粟立ち短い悲鳴の様な声を上げてしまう。そして次の瞬間、何するのと言う筈だった言葉は彼の手元、自分の足元を覗き込んだ瞬間にひっこんでしまった。
 球磨川が触れていた喜界島の左膝からは傷が見事に消えていた。流れてしまった血液すらも、その痕跡を残していない。黙り込んだ喜界島をいつもの無邪気でもあり作り物臭い笑顔で見上げて来た球磨川は、次は右膝ねとまた彼女の足に手を伸ばす。だがそれと同時に後ずさった喜界島に、球磨川は不思議そうに動きを止めた。

『どうしたの?消さないの?』
「消すって…だって怪我って消すものじゃないよ」
『でも痛いでしょ?』
「痛いけど、でも良いよ禊ちゃん、消さないで良い」

 右膝だけとなった怪我の痛みより強い痛みが喜界島の胸に走る。悲痛とも呼べるほどのそれ。喜界島の言葉に、納得はしていないのだろうが怪我した張本人がそう言うのならと球磨川は立ち上がる。彼の行動が少なくとも自分への厚意から生まれたものであることは、喜界島だってわかっている。その気持ちだけは純粋に嬉しくもある。しかし、ご都合主義の様に痛いからと痛みを消してしまうことは彼女には何所かいけないことのように思えた。それを可能にしている球磨川の「大嘘吐き」という過負荷に触れることが、怖いのかもしれない。
 球磨川禊という人間と仲良くなりたいと初めに願ったのは自分の方からなのに、過負荷という存在そのものには未だ拭いきれない恐怖を抱くということは矛盾なのだろうか。喜界島は、既に解決してしまった過負荷との問題を誰かに問うことは出来なかった。空気を読めないとはよく言われるが、過ぎた問題を掘り返す趣味はない。
 何より、他の生徒会役員と違い戦闘という部分に於いて経験の浅い喜界島はそれによって負うダメージに簡単に心を痛める。だが、それならば負った傷をなかったことにすれば良いということにはならない。彼女は強くなりたいと願うのだから。それなのに、球磨川はこうしてあっさりと傷を消してしまう。そして消せなくとも驚異的な回復力を持つが故なのか自分の身体に関してやたらと無頓着だ。他の人間の様に鍛えている訳でもない癖に普通に戦闘をして、ぼろぼろになっている。それが辛い。こんなことを言っても、きっと球磨川には通じないだろう。他人から寄越された優しさに、涙を流すくらいはするだろうか。だがそれは、こんな過負荷の僕に優しくしてくれるなんてという感動だ。

「禊ちゃんだから、禊ちゃんには傷ついて欲しくないんだよ」

 そんな本音を正直にぶつけられたのなら、ぶつけられても何も変わらないだろうけれど。人付き合いが苦手な喜界島には、自分の考えを理路整然と纏め上げて伝えることが出来ない。水泳とお金の計算以外にももっと頑張れば良かった。後悔しても遅いけれど。
 どうしても伝わらないのだろう。だからせめてと呟いた言葉。「命ってひとつしかないんだよ」と、だからどうか自分を大事にしてねと。あっさり死んだから生き返りましたなんて、そんな無茶は私の心が死ぬほど締めつけられてしまうからと。球磨川に向ける愛しさの欠片も届けられないまま、喜界島は噛み合わない哀しさにただ泣いて。そんな彼女を見つめながら、球磨川はその涙を拭おうともしない。それでも、目の前でしくしくと涙する喜界島に、笑っていてくれた方がずっと良いと思っていることを、彼女は勿論、球磨川自身はっきりと自覚することは出来ないまま、生徒会の仕事もそっちのけでただ涙が止まるのを待つように立ち尽くしていた。


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哀か愛か
Title by めい様/15万打企画




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