ぼんやりと佇んで、無駄に広い校庭をぼんやりと眺めていた。やけに部活動の数が多いこの箱庭学園は施設共々やたらと広大で、随分と狭い世界でしか生きて来られなかった江迎には何もかもが余計な物のように思えてしまうことがあった。たとえば、余白を切り取ってしまうかのように、誰にも必要とされずに捨てられても気付かれないようなものがこの学園にも沢山あるに違いない。「も」と述べたのは、世界にはそういう不必要なものが溢れ返っていると江迎は知っているからだ。最たる例として、自分という存在を混入させることを忘れない。
 マイナスでも幸せになれるとあの人は少しだけ予感させてくれて、だけど自分は結局マイナスという地点から抜け出すことは出来ないのだと、江迎はこの学園に馴染むことのない余所の制服を纏ったままで考える。あの人は、人吉善吉という人は。とても愚直に自分の手を取ってくれたけれど、それは彼がノーマルだからといってノーマルに分類される全ての人間が自分の手を取るかと言われればまた別の話。だからこそ江迎は、人吉善吉という一個人をこの上なく好ましく思っているのだ。
 放課後ということもあって、校庭には陸上部やサッカー部、野球部といった様々な部活動が展開されていて、遠巻きに眺めている江迎には個々を別に見分けることも出来ない。黒い点がざわざわと蠢きあっているだけで、何だか少し気持ちが悪い。下校しようとする人間が時々江迎の後ろを通り過ぎて、見慣れない制服に目を惹かれている人間もいれば一瞥すら寄越さずに去る人間もいた。中には、江迎がどういう人間だったかを覚えていて、思い出して、怯えるように走り去ってしまうような人間もいた。どれもこれもが珍しくもなく、江迎はそんな彼等にちらりと一瞥を向けただけで、一切身体の向きを変えることすらもしなかった。知らない人は、他人だから。他人は、傷付ける理由すらないから。いてもいなくても、変らない。少し前までの、世界に弾かれた自分と良く似ている。そんな風に、やけに感傷的に江迎は他人を認識していた。

「――江迎?」

 聞き慣れてはいない、だけど唯一に近く江迎の内側に沁み込んだ声が彼女の名前を呼ぶ。周囲を見渡しても、想像した人影は見つからなくて、気の所為かしらと失望にも近い気持ちが込み上げ掛けた途端、少し上の方から笑いを噛み殺すような声がして、江迎ははっと顔を上げた。江迎の後ろ、少し離れた校舎の二階の窓から、今度は彼女の想像通り、人吉善吉がこちらを見つめていて、軽く手を挙げることで挨拶を寄越していた。江迎の立ち位置から校舎までは少しだけ距離が合って、それでも彼が自分を呼ぶ声を拾い上げることが出来たのは偏に愛の力に違いない。先程までの沈鬱した気持ちは一瞬で消え去って、胸一杯に広がる喜色を抑えきれずに善吉のいる校舎の元まで走り寄った。

「まだ帰ってなかったんだな」
「うん!善吉君は?生徒会?手伝おうか?」
「おう、生徒会でちょっとな。気遣いは嬉しいけどもう殆ど終わったから大丈夫だぜ」

 にこやかに江迎の言葉に応じている善吉と、彼を見上げながら、ときめきに胸を弾ませ頬を赤く染めている彼女の姿を対にして眺めれば、きっと少女漫画の様な画が出来上がっているのだろう。花柄のトーンだとか、これでもかという程にきらめきを施された一コマ。ただそんな可愛らしい描写に収まらないのがマイナスで、この学園で起こる事象全ての出来事への決定事項だった。
 善吉は、微笑みの下であまりよろしくはない頭をフル稼働させてこの場をどう乗り切るか考えている。それはもう、こうして彼女を自分の元へ駆け寄らせてしまったことは自己責任で納得しているけれど、彼女の表情を見る限りじゃあまた明日といってはいさようならという選択肢は何故か用意されていないような気がした。
 女子との付き合いに慣れていない善吉にすら、彼女の存在そのものが雄弁に語りかけてくるのだ。もっと一緒にいたいと。それは不器用ながらに江迎が善吉に向けている感情そのもので、言葉に当てはめるならば恋と呼ぶべきものだけれど。責任感は人並みに持ち合わせている善吉は、まだ終わり切っていない生徒会の仕事を放棄してじゃあ一緒に帰ろうぜと彼女にばかり都合の良い言葉を差し出してやることは出来なかった。あと一か所、掲示板から掲示物を剥がしてくるという簡単な仕事の後、それを生徒会に届けるだけ。そのまま、他の仕事を押し付けられる可能性は十分にある。だけども先約があるならば意を決して断ることだって出来る。
 ただ善吉は、その僅かな時間すら、江迎は辛抱ならないだろうことを予感していた。最悪、今自分達を遠ざけているこの距離が鬱陶しいと校舎の壁を腐らせて自分を引き摺り落とすくらいのことはしでかしそうなのだ。
 ノーマルな感性で言えば、江迎の行動は尽く面倒臭いと一蹴されそうなものだけれど、善吉はもう彼女はそういう人間だと割り切っていて、受けいれて、慣れた。

「ねえ、善吉君。私、…あの、待ってるから…」
「――?江迎?」
「い…一緒に帰らない?二人で!」

 誰かを何かに誘うなんて、同じマイナス間でなければ江迎は絶対に出来ないと思った。だって自分だから。そして、それを善吉にすることが、こんなに怖いことなんて思いもしなかった。善吉なら大丈夫だと思っていたけれど、吐き出した言葉の次を矢継ぎ早に繰り出そうとしても胸がぎゅっと詰まって苦しい。呼吸すら上手く出来ないような気がした。まるで水中に沈んでしまったかのように、苦しくて。無意識に縋るように善吉に向かって手を伸ばした瞬間、自分のこの動作が相手にどんな印象を与えるのかを想像して、また恐くなった。
 上から自分を見降ろしている善吉は、きっとこんな苦しさは知らないのだろう。ぶくぶくと沈んで、水槽の様に狭く隔離された場所で生きてきた自分とは違う。善吉は、その外側を生きてきたような人だろうから。

「じゃあ今から生徒会室寄って来るからそこで待ってて貰っても良いか?」
「……え、」
「…どうした?」

 一緒に帰りたいと要求したのは自分だったのに、直後の苦しさで全ての記憶が飛んでしまったのかと思うくらい、善吉の言葉を理解するのに時間がかかった。不思議そうに江迎を見る善吉の瞳には、自分に向けて手を伸ばして来た彼女に対する怯えも察するところも何一つ無かったようで、彼女はだらりと下げた両の手をぎゅっときつく握り締めた。オンオフが着けられるようになったからと言って、此処まで彼は自分を信じ切ってくれている。そう信じて、江迎はやっと楽に呼吸が出来るような気がした。

「うん、待ってるね」
「おう、じゃあまた直ぐ後でな」

 寄りかかっていた窓辺から離れて駆けて行く足音を慎重に追いながら、もしこれが、自分の為に急いてくれているのならば嬉しいと思うことは、途端に贅沢になりすぎだろうかと江迎は応える相手のいない問答を自分に投げる。
 ぶくぶくと、時折自分を飲み込む暗い水と囲いは完全に取り払われる日は来ないだろう。この先も自分はずっとマイナスでしかないのだろうから。それでも、マイナスでも自分なりの幸せがあって、それを掴んでも良いことを教えてくれる人が傍にいるから、江迎はそれで充分だと思う。
 沈みきった自分を浮かんで見下ろしながら、まるで当然とてもいうように手を伸ばして掬い上げてくれる。嬉しくて、江迎はもう一度もう誰もいない二階に向かって右手を伸ばした。何も起こる筈はなくて、だけど江迎は細心の注意を払ったつもりだった。何せ、照れたり感情が高ぶるとうっかりこのラフラフレシアは発動してしまう時があるみたいだから。
 仕事を終えた善吉が、駆け足でこの場に到着するまで江迎はにやける顔をそのままに溢れだしそうな喜びを必死に噛みしめていた。


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水槽に沈んだわたしと浮かんでいるあなた
Title by匿名希望様/15万打企画





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