もういつかになってしまった遠い過去のこと。自分に背を向けながら、でも確かに微笑みながら「好きですよ」と囁いてくれた日の彼女を思い出す。あの時、自分がどんな顔をしてどんな返答をしたのか、そればっかりが思い出されず、危はただ息を吐いた。
 あの日、瀬名は自分に好きという言葉をくれた。そこに込められた意味を、柄にもなく測り倦ねたことだけは、今でも危は覚えている。嫌いではなかった。人間としてなら間違いなく好きだった。けれどどうやらそれだけじゃあ共に在るには駄目で、何かが足りなかった。

「お久しぶりです」

 そう瀬名の唇が音を紡いで、危の鼓膜は震えて少し目眩がした。夜勤を含む連勤中の危には、太陽の光も、穏やかに微笑む瀬名も、何もかもが眩しくて瞼に痛い。
 病院の中庭で、危はベンチに腰掛けながら、散歩の時間だろう、車椅子や点滴を引きながら歩いている患者達の姿をぼんやりと眺めている。時折顔見知りの姿を見つけてはどうやら順調に回復しているらしいと一人納得する。
 そんな危の隣に、瀬名は静かに腰を下ろして、恐らくは危と同じ風景を眺めている。お久しぶり、の台詞は勿論危に向けられた言葉ではあるけれど、彼女がこの平聖中央病院に姿を見せるのも実際久しぶりだった。ちらりと目線を横にずらす。瀬名は、今この瞬間をどう感じているのだろう。懐かしいとか、変わらないとか逆に変わってしまっただとか、色々。それでも俯かず前に向けられた視線から何となく感じてしまう幸せだとか悔いの無さに危はただ安堵した。自分が与えたものなど一つもないのに、それでも。

「危先生はまだ病院住まいですか?」
「まあな、楽なんだよ」
「そんなの若い内だけですよ」
「俺はまだまだ若いから良いんだよ」
「はいはい、」

 危の現在を、瀬名は知らない。いくら言葉で伝えても彼女自身の目に触れることは今後もないだろう。それが当然でそれが良いと思う。日に日に所帯染みていく瀬名には、危のずぼらな生活態度は口を出さずにはいられないものだから。交わす軽口がぱったりと途絶えてしまった日から、危は時々懐かしさに足を取られ動けなくなる。騒がしさに馴れすぎて、静寂が全身に纏わりつくことが怖い。瀬名がいればなんて言葉は、日常の中で呟いてはいけないのである。それは、瀬名がもう瀬名ではなくて、危が最も信頼する大切な同僚かつ友人の妻になってこの病院を去ったから。
 「好きですよ」と言われたあの時から、危はずっと考えている。瀬名と、命のこと。言葉を受け取ったのは自分であるにも拘わらず、危は思考の場に命を持ち出した。だから、最後まで何も出来なかったのかもしれない。
 命と瀬名が結ばれたことに、首を傾げる者はいなかった。気にするなと危の肩を叩く輩は数名いたけれど、危だって笑って祝福してやったのだから、何も気になどしていない。そう思い込むことにしている。
 瀬名が寿退社、或いは退院をしたことだけは、多少意表を突かれた部分もあるけれど。彼女もまた医者であるから、生活に落ち着きが出たら戻って来るのだろうと納得することにした。けれど、直ぐに家庭のある身だと、何かと忙しいこの病院に戻るのは難しいかもしれないと、一人でがっかりした。何故か瀬名の今後を先読みしようとしている自分のことに、危はその時なんの疑問も感じなかった。

「危先生、今日は静かですね」
「最近じゃあこんなもんだ」
「そうですか」
「口煩い誰かさんと言い合うこともないんでな」
「あらあら、そんな人いたんですねえ?」

 二人は相変わらず、視線を前に送ったまま、流れる風景を瞳に映しながら久方ぶりの会話に興じている。実のある内容でもない。それでも危は楽しいと感じて、それからやっぱり懐かしかった。懐かしい、懐かしいと、何度も瀬名に対して思うのだ。それだけ彼女が、その記憶が遠ざかって色褪せていくのだと、危はもうとっくに理解している。彼女との記憶に限った話ではなく、人付き合いとは単にそういうものだと、経験上危は知っている。子供ではないのだからと、諦めてしまえるくらいには、歳を重ねているのだ。

「お前、今日はどうしたんだよ」
「真中さんとご飯食べる約束してるんです。だからお迎えです」
「命には会って来たか?」
「忙しいみたいだったので連絡だけ入れときました」
「ふーん。まあ家で会うわな」

 今日、瀬名が自分とこうして会話していることが、本当に単なる偶然だったらしいと理解して危はほっとしたような、憮然としたような気分になる。女の友情とやらは男の危には理解しがたいが、瀬名が此処で得たものがまだ消えていないことには危は素直に嬉しいと思った。

「…そういえば危先生」
「ん?」
「私、ママになるんですよ」
「………へえ、」

 驚くことでもないけれど、上手く言葉が繋がらない。瀬名が母親になる。命の妻に納まった彼女が身籠るくらい、いつか高確率でやってくる未来だったのに。
 まだ膨らみを持たない瀬名の腹を見詰める。今はなんの主張もしていなくともそこには既に新しい生命が宿っている。瀬名は、やはり幸せそうに微笑んでいる。
 この気持ちをなんと形容してやれば良いのだろう。未だに、とうの昔に瀬名では無くなっている彼女の名すら呼び兼ねている自分は、更に西條の姓を授かって生まれてくるこの生命に何を思うのだろう。
 ぐらぐらする。連勤中の強い太陽光だとか、暑い気温の所為による体調不良なんかではない。だけどたぶん体調も万全ではないのだと思いたい。「好きですよ」と言われたあの時。迷いもせず「俺も」と言っていれば良かっただなんて、痛む頭の片隅に浮かぶ幻想でなくてはいけないのだから。



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思い出はただ悲しくある
Title by『彼女の為に泣いた』




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