※パラレル



 この本州から幾分離れた孤島で唯一の医者が倒れたのは数日前のことだった。倒れたといっても体調を崩した訳ではなく、もう老齢に入りだいぶ過ぎたお爺ちゃんにはまあ珍しくもないぎっくり腰だった。本人もこれは暫く働けないなあと呑気に笑いまたこれを機に隠居するのも良いかもだなんて言い出す始末。年齢が年齢なだけに馬鹿なこと言っていないで働けという訳にもいかず。この島唯一の医者の下で看護師として働く瀬名はどうしたものかと溜め息を吐くくらいしか出来なかった。
 安静にしなければならないことは変わりようがないので、小さな診療所の入り口にはここ数日の間診察時間終了の札が掛けっぱなしになっている。仕事が無いのだから看護師の瀬名にも出勤の義務はないのだが、診療所に隣接する老医師の自宅に様子見を兼ねて毎日通う。それから島民の中の自宅療養中の患者の様子を尋ねて回ったりしている。島民の殆どが老齢、または成人済みのこの島の人々はいつだって穏やかだ。辺鄙な島だとは思うが、瀬名がわざわざ本土で看護師の資格を取ってこの島に戻って来たのはやはり此処が好きだからだ。
 そんな生活を続けて一週間ほど経ったある日のこと。老医師は縁側で陽向に当たりながらやはり隠居することに決めたよと瀬名に打ち明けた。仕方ないと思う反面、つまり自分は失業してしまったのだなと思うと何だか肩が重くなった気がする。そもそもこの島に診療所は一つしかない。その唯一の医療機関が無くなってしまったら具合が悪い時にどこに駆け込めば良いのだろう。

「東京の病院で医者やってる知り合いの教え子がね、来てくれるんだよ」
「じゃあこの診療所は残るってことですか?」
「うん。瀬名君もこのまま此処で看護師として働いてくれんかね?」
「それは勿論!それで、新しい先生はいついらっしゃるんですか?」
「今日の夕方には着くはずだよ」
「今日!?」

 あまりの急な展開に瀬名は思わず大声を上げる。老医師はにこにこと微笑みながら、彼は非常に優秀でねえ、とこれからやって来る彼の人について語り出す。正直、悠長に話をしている場合ではなかった。
 話通り、新しい医師はその日の夕方、島の港に降り立った。西條命と名乗ったその人は、迎えに来た瀬名と握手を交わすと人懐っこい笑顔を見せた。その瞬間、瀬名は彼はきっとこの島に馴染むだろうと思った。命は住む家については診療所と隣合っている老医師と一緒に暮らすことにしているらしい。老医師によれば命との直接の面識はないらしいが、大丈夫だろうかと瀬名は案じるが命は根拠もなく大丈夫だと言い切る。変な所で自信に満ちているらしい。
 瀬名の予感通り、命は直ぐにこの島の雰囲気、住民、生活に馴染んだ。年齢的にも若い為回診に外に出ることも多く、病気とは縁遠い人等とも親しくなっていき、数少ない子供等とも仲良く話している姿を良く見掛けた。聞けば東京では小児外科を専門としていたらしい。そんな人が何故こんな孤島に医師として赴任してくれたのか、瀬名には理解出来なかったが、尋ねる機会もなかったから聞かなかった。どんな理由でも、こんな素敵な医師がこの島に居てくれるのならば安心だと、そう思っていた。
 そうして時間が流れたある日。診療所宛の郵便物を確認していた時のこと。東京の病院から命宛ての封筒を見つけた瀬名はそれを命に届けた。あまりに命がすんなりと此処に溶け込んでいたから、最初に差出人欄に東京と在ったのを見て思わず首を傾げてしまった。

「前の病院の方からですか?」
「うん。友達からだね」
「…差出人、住所病院になってますけど」
「病院に寝泊まりしてるんだよ。家賃ケチってるんだ」
「良いんですかそれ」
「まあ、バレてないしね。でも懐かしいなあ」
「………西條先生は、どうしてこの島に来たんですか?」
「え?」

 懐かしいと口にした命の表情が、ありありと懐かしさと愛しさとを浮かべて緩んだ瞬間、瀬名はずっと仕舞っていた疑問をあっさりと命に尋ねていた。帰りたいと、思っているのかと不安になってしまったからかもしれない。
 命は、少し瀬名の質問の意味を考え込んで、うーん、と悩む仕草をした。瀬名はそんなに難しい質問をしたつもりなかったから、何だか申し訳ない気持ちになる。それでも、やっぱり良いですと取り消すつもりはない。

「…会いたい人がいたんだ」
「会いたい人?もう会ったんですか?」
「うん。でもやっぱり俺のことは覚えてなかったみたいでね」
「そうなんですか。…残念ですね」
「…瀬名さんのことなんだけどね」
「……はい?」

 予想外の言葉に、瀬名は詰まる。命はやっぱり忘れてるかあ、と笑う。果たして、自分はいつ何処でこの人に会っていたのだろう。とはいえ可能性ならば瀬名が看護師になる為に上京していた時だろう。しかし、肝心の何処でどのように出会ったのかは申し訳ないが綺麗さっぱり忘れているらしく全く思い出せない。

「…すいません、忘れちゃったみたいで」
「良いよ。それよりさ、瀬名さんに会いたくてこの島に来たってことについては察して欲しいな」
「え…、えっと、それはつまり…うん?」
「鈍いなあ。まあゆっくり自覚して意識して行ってね」
「な…なんか自信ありげですね」
「どうだろうね」
「負けませんよ!」

 こう命に高らかに言い放ったものの。命の言葉通り、命を思い出そうと彼について考え込んだり、これを機にあからさまになった命からのアピールに、瀬名が絆されて落ちるのにそう多くの時間は掛からなかった。
 気付けば命と瀬名の関係は島中に知れ渡り、すれ違う住民達に毎度祝福される程に受け入れられてしまった。こうなればもう逃げることなど不可能だった。

「大丈夫だよ。俺、赤ん坊取り上げたりも出来るし」
「そういう問題じゃありません!」

 診療所に瀬名の声が響く。島は今日も平和そのものであった。



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こうやって過ぎていく街から
Title by『ダボスへ』




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