手渡された鍵は真新しかった。何の鍵ですかと尋ねれば俺の家の鍵だよ、と微笑まれたから、そうなんですか、と微笑み返した。普通の鍵ですね。そんな余計な感想は添えずに命に鍵を手渡そうとする。だけど命は首を傾げたまま受取ろうとはしなかった。だから瀬名も同じようにどうして受け取らないんですかと首を傾げる。

「それは瀬名さんにあげたんだよ」
「…?どうしてですか?」
「いらないの?」
「必要はありませんよね?」

 会話が噛み合っていない。瀬名は命のことが好きだけれど、彼の医者として理想の人格者の姿を見出しはいるけれど。何故こうもちぐはぐなのだろうと、思わずにはいられないほど。自分の理解力が乏しいのか、命がぶっ飛んでいるのか。絶対後者だろうと、日常の中ではそう思っている。
 自宅の鍵を、職場の部下に渡してどうするというのだろう。メイドじゃあるまいし、此処に至って、命の身の回りの世話は瀬名の仕事では無い。彼らの仕事は医者で、患者の命を救うことにあるのだから。
 それ以前に、瀬名は命の自宅を知らない。思えば、考えを巡らせたこともなかったかもしれない。職場の病院に、命が馴染み過ぎているからかもしれない。じゃあ帰ろうかな、と同じトーンでじゃあ仮眠室行こうかなといって姿を消すから、なんとなく自宅と仮眠室がすり替わっていいたのかもしれない。
 話は逸れてしまったけれど、とにかく、瀬名が命から彼の自宅の鍵を渡される理由は、よく分からない。場所も知らないし、何より二人は自宅を行き来するような仲では無い。命だって、瀬名の自宅の場所を知っている筈がなかった。使用している駅の名前すら知らないだろう。何ら不自然のない、上司と部下の、ありふれた姿だ。

「私、西條先生の家なんて知りませんよ」
「うん、だから今度教えようかなと思ってるんだ」
「でも、やっぱり鍵は必要ないですよね?」
「鍵がなきゃ家に入れないでしょ」
「西條先生の鍵があるじゃないですか」

 それなのに、命は背中で手を組んでしまったから、意地でも瀬名に自分の家の鍵を受け取らせたいらしい。自分で言うのも何だが、瀬名は結構忙しない。もしかしたら、うっかり鍵を失くすなんて事態になるかもしれない。
 そもそも二人っきりで食事したこともない。出掛けたことは当然。病院の食堂での食事は今はノーカウントだ。仮に命の行動が瀬名への好意からくるものだったとしても、色々な過程をスルーし過ぎている。家の鍵って案外重たいものだと瀬名は今知った。

「仮に、私が西條先生の家の鍵を貰ったとしてですよ?」
「うん」
「私は自分の都合の良い時に西條先生のお宅にお邪魔していいということですか?」
「そうだよ」
「でもこの鍵を使う時は西條先生は自宅にいませんよね?それじゃあ私が訪ねる意味がないです」
「……そうかな」
「私は西條先生に会いたくて家まで行くんでしょう?なら此処でも会えます。寧ろ此処で会います。此処には私が一番好きな、一番輝いてる西條先生がいますから」

 こんなに強く、瀬名が命に意見をするのは初めてかもしれない。もう一度、瀬名は命の前に渡された鍵を差し出す。今度は、命は大人しく受け取ってくれた。しかし直ぐに顔を逸らして、片手で覆って溜息を吐かれた。だから、途端に瀬名は背中に冷や汗をかいたような、一気に思考が冷静かつマイナス地点に落ちていくのを感じた。もしかしなくても、生意気だっただろうか。そんな不安が、じりじりと瀬名の下腹部をちくちくと刺してくる。

「なんか、結構、来るね」
「……はい?」
「こっちの話。ありがとう瀬名さん」
「はあ」

 手を退けて、にっこりとほほ笑む命の頬は少しだけ血色よさげに赤らんでいたけれど、いつも通りの様に思えた。何か礼を言われるようなことを、自分は言ったのか。でも命は怒っていない様だから、それだけで今は十分安堵した。
 マイナス地点から思考が帰ってくる。反面、冷静なまま少し前の自分の言葉を振り返る。自分は、彼に、何と言ったんだっけか。巡らずとも直ぐに浮かぶ。「好き」。伝えられずまた応えても貰えまいと仕舞い込んでいた気持ちを随分とあっけなく、また熱く本人に打ち明けてしまっていたことに、漸く気付いた。
 途端冷静さが消え失せ頬に一気に熱が集中する。命は相変わらずにこにこと微笑んでいて、思わず笑わないで下さいと反論するのだけれど、効果は全くなかった。

「ああああのですね、西條先生、さっきのはですね、あの…」
「瀬名さん、落ち着いて」
「すいません、あれはその、つまりあの…!」

 つまり、どうだと言いたいのか、瀬名自身も実際よく分からない。思考なんて上手く行く筈もなくて違うんですと言うのもいい加減で無責任な気がする。だけどその儘届けるには自分と彼はまだ遠いのだ。血の気が引いて行くような、足もとがぐらつくような感覚。泣きたいし、逃げ出したい。だけどそれをすれば最後の砦を失ってしまうような気がして、なんとか耐えきる。

「一緒に暮らそうか」
「え?」
「俺も、瀬名さんが好きだから」
「…嘘」
「嘘じゃないよ。瀬名さん鈍いよね」
「西條先生に言われたくありません!」

 今度はけらけらと笑う命に、瀬名は今度こそ羞恥でいっぱいで泣いてしまう。恥ずかしさと、それから嬉しい気持ちで溢れ返る涙を、命が拭う。触れられたのだって、初めてなんじゃないか。慣れない熱に思わず後ずさってしまうけれど、それでも瀬名を見つめる命の瞳が優しいから、結局おずおずとまた一歩を踏み出す。
 この涙が止まったら、呼吸が上手く整ったら、今度は自分からお願いしよう。その鍵を、私に下さいと。きっと笑って、大事にしてねと手渡してくれることだろう。


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この胸が落ちてきそうな昼に
Title by『ダボスへ』



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