クラスの日直の順番が出席番号ではなく座席の位置で割り当てられていることに、阿部は入学当初から容量の悪さを感じている。端的に言うならば苛立っている。この方法だと運が悪ければ席替えの前後で他のクラスメイトより多く日直を担当しなければならない。一方で担当しないで済む人間は殆ど仕事をしないで済むのだ。席替えの頻度が、日直が一巡したらと定期的に行われていないのも益々非効率なことだと思えた。けれどたった一日二日のこと、クラスの中に不満の声を聞くことはなかった。けれど阿部にとってはそんな些細なことすらも部活にばかり身を浸しているが故多大な影響を及ぼすことなのだ。
 日直の日となれば朝練だって日誌を取りに急いで部室をでなければならないし、食事や睡眠に充てている休み時間だって教師の雑用係として返上しなくてはならない。放課後になっても黒板の掃除と窓の鍵閉め、日誌が書き終わらなければいつまでも部活に行くことが出来ない。学校に来る目的がもはや野球一択となっている阿部からすれば日直とは拷問に近い苦痛であった。
 そして何より、女子と一緒に日直をしなければならないということが阿部にとっては最大の苦痛なのである。元来愛想は良くないし、目つきも穏やかではない。気を利かせてやれない自分も悪いのかもしれないと思ったこともある。だが阿部が効率化を求めてひとりで行う作業を怒っていると勘違いして必要以上に委縮されるのも面倒だった。ひとりの女子の委縮は、その友人たちからの顰蹙を招くから猶更。
 だから久しぶりに日直の当番が回って来た日。隣席の女子が体調不良で欠席し、入れ替えという形でその女子生徒の後ろに座る篠岡と日直をすることになったとき、阿部としては正直安心したのだ。「よろしくね」と改まって言うようなことでもない挨拶を寄越す篠岡に、阿部は頷くだけで返事を省いたのだが、それに対して特に反応を示さない彼女の態度は彼にとっての理想の距離感だったのかもしれない。
 そんな阿部の安心を裏付けるように、篠岡の仕事ぶりは部活のマネジメント同様にそつないものであった。「やっておこうか」よりも「やっておくね」の方が気楽。やって欲しいならば言えばいい。一つの作業を分担してこなさなければならないほど、難儀な仕事などそうそうありはしないのだから。
 対人関係を築く上で言葉は最も大切なものだと考える阿部にとって、篠岡の自分に対して物怖じしない態度は心地よかった。彼女よりも身近であるべき人間に言葉の通じない類の人種がいるものだから。けれど、偶に妙だと感じる自分がいることにも気付いている。
 それは勿論篠岡に対してであるのだが、では具体的に何がと問われればそれを明確に表現できるほど阿部は普段の彼女について熟知している訳ではない。部内のマネージャーとして、その能力には感嘆するものがあるが、逆にそこにしか関心を持っていないのだ。男女の開きもあるだろうし、阿部は積極的に他人を巻き込みに動き回る人間ではない。
 別にそれが良い悪いとかではなく、それならば黙っていればいいだけの話だと、阿部は途中で止まっていた日誌を書く手を再び動かそうと目線を机に下げる。三限目の数学で習った授業内容がどうも思い出せない。得意科目だからと油断していた所為かもしれない。

「…あっ!」

 小さな悲鳴と同時に響く落下音と次いで衝突音。日誌に意識を向けた矢先ではあったが阿部の意識は引き戻される。放課後の教室には既に日直の阿部と篠岡しか残っていなかった。阿部が日誌を書いている最中、篠岡は黒板を掃除していた。一足先に部活に向かう花井と水谷は普通では逆だろうと言い残して行ったが、阿部が黒板掃除を担当した場合高確率で翌日教師に注意を受けるだろう。文字が消えていればいいのだと阿部は思うのだが、日直の仕事としてはそれでは駄目だった。結局二日間日直をやらされたのが阿部の前回日直時の最悪な思い出である。

「――篠岡?」
「――わ、ごめんね阿部君!びっくりしたでしょ」
「いや別に。チョーク落とした?」
「うん…」

 申し訳ないと眉を下げながら何度も謝罪する篠岡に、阿部は気にしなくていいと首を振る。
 言葉を添えない態度は下手をすれば呆れの意思表示として届いてしまうことを阿部はさして気にしない。言葉が対人関係に於いて大切だとは認めるのに、それを自分が十全に使いこなしているかと言うと阿部の場合随分と怪しいのだ。それでも阿部の意図通りに気持ちを受け止めた篠岡は直ぐに「雑巾濡らしてくるね」と言い残し廊下へ出て行った。
 阿部は席を立ち、黒板の前まで歩いていく。床には落下した白と赤、黄色のチョークが粉々に折れて散っていた。落とす前から随分と短かったものも多いのだろう。教壇の机にまだ予備があるので新しく補充する必要はないだろう。拾える長さを残しているチョークを拾って、教室の端にあるゴミ箱に向かって投げる。見事にゴミ箱に吸い込まれていく落ちた音を聞きながら、阿部は篠岡のことを考える。
 阿部が思うに、今日の篠岡はこうした凡ミスが多い。それを阿部が鬱陶しいだとか咎めたいとかそういう気持ちは微塵もない。自分に実害があると機嫌を損ねる規模でもないのだ。
 ――けれど。
 移動教室の際に鍵を閉める為に教室に最後まで二人で残るのをやたら遠慮したり、挙句ドアに指を挟んだり、クラス全員分のノートをひとりで運べないかと挑んだり。些細なことだけれど、野球部の優秀なマネージャーとしての篠岡しか認識して来なかった阿部には、クラスメイトの篠岡が見せる珍妙がやけに奇異として頭の隅に引っかかるのだ。
 そして、普段からこれに似た奇異を残す人物を阿部は確かに知っている。彼の無愛想な態度に怯んだり媚びたりの女子等ではなく、他人の一動作に嫌悪されることを恐れるが故の緊張と委縮。

「三橋みたいだな、篠岡は」

 無人の教室にも響かないほど阿部の声は小さかった。
 別に篠岡が三橋の用だとしても問題はない。少なくとも部活の時は違うと知っている。だから、日直といった機会がなければ密に関わることのない彼女が日常どうであろうとも構わないのだ。だけどそれが、その対象が自分だからという限定的なものであるならば流石に気になる。同じクラスであっても部活以外で阿部と篠岡はそう会話を交わさない。水谷は頻繁に話しかけたりしているが、それが自分の傍らであってもその内容には全く興味を示してこなかった。好かれる理由は当然ないが、嫌われる原因もないと思っている。それなのに、何故篠岡から萎縮した態度を取られるのか。知りたいような、どうでもいいような微妙な気持ち。
 阿部がそんな小さな葛藤に身を委ねていると、背後でドアの開く音がする。篠岡が戻ったのだなと顔を向ければやはりその通りで。しかし彼女は驚きの表情を浮かべていた。
 ――ああ、俺がチョークの片づけをしているからか。
 察したけれど、自分の席にさっさと戻ってしまおうとは思わなかった。

「――阿部君、後は私がやるよ!」
「…篠岡、」
「本当にごめんね」
「俺のこと嫌い?」
「え」

 時間と空気がまるで一斉に停止したかのように固まる。実際強張ったのは篠岡ひとりだった。
 維持の悪い問いかけだとは阿部もわかっている。「嫌いだよ」なんて答えが返ってくるはずがないと知りながら何を訪ねているのか。しかし実際嫌われていたとして、阿部がそこに頓着するかと言われるとまた疑問なのだからどちらにせよ勝手な問いなのだ。
 ただ今日一日篠岡を見て、端々に浮かぶ自分を遠ざけようとする気配に気付いてしまった以上無視するわけにもいかない。最高あと二年間同じ目標に向かっていく仲間なのだから。たったそれだけの、一つきりの理由で阿部は他人の本音を求めている。
 他人に対して身勝手なのは全てに於いて今更だ。阿部がそうやって自分を割り切ってしまえるから、篠岡に対してあまりに鈍感で鋭利な言葉を吐けたのだろう。露骨にならないようにと逸らされてきたしせにゃ、向かい合う度に少し俯いて、それでも意図せず赤くなる耳だとかにほんの少しでも彼が気付けていたのなら、きっと阿部は今だって篠岡のあらゆるミスを看過することで自分に都合悪く働くその先を拒むことを選んだはずなのに。

「――…私、」

 だから、誰もいない夕方の教室でこんな事態になったのも、どちらかに責任を求めるならばきっと阿部が悪い。意を決したように開かれた篠岡の口から、阿部が全く意図しなかった言葉が告げられたとしてもそれすら無頓着な彼自身の選択によって迫った不可避な結果。
 遠巻きに届くグラウンドや校舎内からの色んな部活動の気配を感じながら、阿部は全く動くことが出来なかった。



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だって夕日が眩しかったから


Junkより回収・加筆修正





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