世界の果てまで行けるなんて、冗談でも言わないし思っていない。世界に果てなどなくて見事なまでの球体を維持する地球で終わりなんて何処を探したって見つかるわけがない。
 じゃあ何処まで行くのかと聞かれればどこまででも行くつもりだしだけどどこにも行けないと答えるだろう。それは気概だけではどうやっても覆せない子どもという肩書きに邪魔され背負わされた弱さ故。早く大人になりたいなんて思わない。今だってそれなりに楽しい。だから突然の不意打ちにこうも容易く揺らぐ叶はどうしようもなく子どもだった。


 叶が学校から帰宅し家の門扉に手を掛けた時、丁度自分のやって来た方向とは反対側から瑠里は歩いてくるのを見かけた。校舎が男女で別の三星に通っている叶と瑠里は制服姿で遭遇することすら珍しい。挨拶だけでもしておくかと声を掛ければ彼女の反応は言葉ではなくただぼんやりと声のした叶の方を見つめ返すという物。普段の快活さとは程遠い様子に、叶はまず体調不良を疑い自宅に入ろうとしていた身体を方向転換して彼女の方へ駆け寄った。それを制する声も尋ねる声も返ってこない。ますます訝しんで覗き込んだ瑠里の顔を見て、叶はぎょっと固まってしまった。
 今にも泣きそうな瑠里の顔。咄嗟に掛ける言葉が見つからなくて叶は思わず指先が掠めた瑠里の手を握りしめていた。いつぶりになるのか、思い出せないほど久し振りに握った彼女の手は、叶が想像していた以上に小さくて柔らかかった。おろおろと戸惑う感情がありありと顔に浮かんでいたのだろう。それを笑おうとした瑠里は結局苦笑すら形作れないまま大粒の涙を一滴だけ地面に落とした。

「――ねえ叶、逃げたい」

 そう、弱々しくもはっきりと呟いた瞬間。叶は握っていた瑠里の手を引いて有無を言わさず歩き出した。「わかった」とも「何処へ」とも何も尋ねてはこない。同じように、瑠里は叶に対する一切の疑問も口にしなかった。ぽつぽつと住宅から漏れる灯りが外灯替わりを務める道を抜けて辿り着いたのは、徒歩通学の瑠里は滅多に使用しない自宅からの最寄り駅だった。目的地も定めず思いつきで辿り着きた駅の構内は、夕方から宵に差し掛かった時間帯にも関わらずだいぶ空いていた。
 一端、叶は握っていた瑠里の手を離して券売機に向かい制服のズボンの尻ポケットから財布を取り出して小銭を入れていく。瑠里はただ、その光景をぼんやりと眺めているだけ。「まだあの財布使ってるんだ」なんて他人事のように考えながら。
 叶が切符を買って瑠里の元に戻ってくる。二枚購入した一枚を彼女に差出し受け取ったのを確認すると空いていた片方の手をまた握り直し改札を抜けていく。小さな切符に印字されている数字は一番安い値段のものだが、行先はよくわからない。ただ今の瑠里は何処に向かっているのでも構わなかった。「逃げたい」という欲求が満たされていくのならば。
 ホームに出るとタイミングよく到着してきた電車に迷うことなく乗り込む。車内は構内と同様に殆ど乗客がいなかった。上りと下りの違いもあるのかもしれない。帰宅ラッシュをもう過ぎてしまったのか、それとも学生の利用がひと段落しているだけであと少しすれば社会人たちの帰宅が始まるのかもしれない。叶も瑠里と同様に滅多に電車は利用しない人間だったので詳しいことはわからない。ただ自分たちを知っている三星の制服を着た人間が見当たらないことだけは救いだった。
 手を繋いだまま並んで座席に腰を下ろす。ボックス席ではなく、ロングシート。二人のいる車両には今の所他の乗客はいない。同じ駅から数人この電車に乗り込んだはずだと横目にみていたけれどこの車両ではないようだった。
 電車の振動に逆らうことなく揺られながら、そういえば瑠里はこの電車の終点すら確認していなかったと思い至る。少し前まではアナウンスが行先を告げていたはずだが、ちっともそれに意識を向けなかった。流石に少しだけ不安になって来たのか、視線だけで叶に尋ねる。瞳は相変わらず水膜に揺れていて、車内のきつい蛍光灯の明かりを受けて大袈裟にきらめいて見えた。それが一瞬、期待の色に見えてしまった叶は、裏切るようで申し訳ないと詫びながらも偽ることなく「わからない」とだけ答えた。瑠里は怒らない。

「どこで降りるの?」
「別に何処でも」
「終点についちゃったらどうするの」
「逃げたいんだろ」

 ――なら遠くに行かなくちゃダメだろ。
 叶の呟きに、瑠里は猫のような瞳を大きく見開き、直後顔を伏せた。絞り出すような声で吐き出された「ごめんね」はまだ帰りたくないという意思表示。わかっているという返事は繋いでいる手に少しだけ力を込めることを代替した。たぶん、伝わっているのだろう。
 ガタンガタンと規則的に響く音が二人の鼓膜を揺らす。
 群馬の電車は一つ駅を通り越してしまえば歩いて帰るには距離が開いていて時間も掛かる。乗り換えもそう便利ではない。そう遠くなく元気さえあるならば学生は自転車で移動する方がよほど効率的で、それが大人になると自動車に移り変わっていく。だからこうして逃亡手段に電車を用いている時点で無計画で非効率的で短絡的なのだと叶は思い知る。終電の時間だって田舎は早いしそもそも本数自体少ない。終点まで乗っていては乗り合わせ次第では今日中には自宅に帰れないかもしれない。尤も現段階では「帰る」という意思はないようだが。
 しかし叶は何となく、瑠里の言った「逃げたい」という言葉自体が突発的なものであることは理解していた。彼女が逃げることでいなくなってしまうことを望んでいる人間など誰もいない。きっと夜の出歩きだって良い顔はされないだろう。瑠里は両親にも祖父にも大事にされている。だからきっとこのまま引き返して一緒に帰れば怒られるのは叶なのだろう。叶が小学生時代に築き上げた悪ガキの地位と印象は未だに同年代の連中の両親の中では健在なのだ。特に瑠里の祖父辺りにはこっぴどく叱られるかもしれない。最悪、もう会うなだなんて古臭い制約を突きつけてきそうで、想像しただけで辟易してしまう。叶は彼女の祖父とそう面識がある訳でもないが、あまり良い印象を持っていなかった。
 不確定な不安要素がいくつも浮かんできては叶の脳内を揺らす。電車の揺れとはまた別の、酔ってしまいそうな渦。けれどそのどれもが今叶の隣で俯いている瑠里を放り出すには及ばない。小さい頃から強がってばかりの、特に自分に対してはその気が顕著だった彼女がここまで崩れる理由を叶は知らない。知ったからこそ特別何かを出来るとは思っていない。だがそれでも尋ねるべきなのかもしれない。けれどそれをするよりも先に知って欲しかった。無条件に彼女の為に動ける人間がいることを。叶がそういう人間であることを知って欲しかった。
 周囲が瑠里に求めるものと瑠里が自分に求めるものはいつだってミスマッチだ。理事長の孫がどれだけ窮屈なポジションだったかを、叶は中学時代に学んでいた。尤も、その窮屈さを教えてくれた幼馴染よりは瑠里は上手くやっていける人間だということも知っている。だがいいね、いいねと羨む連中に何がだと問いたい叶の心中を察して諦めたように笑う瑠里が、彼はどうしようもなく苦手だった。「こればっかりはどうにもね」と確かに今更どうしようもないことには違いないけれど、反射的に叶は嫌だなと思ったのだ。今みたいに俯いてでも、崩れても自分の気持ちを殺さずに自分に縋ってくれる方が何十倍もマシだった。
 地平線に殆どを沈ませた太陽の最後の足掻きのような橙色の光が瞼に差して、眩さに目を細めた。こういう色合いは眠気を誘うからいけない。この眠気に身を任せたって夢の国には行けないし、行き着くのは精々この電車の終点だ。どんな幸せな夢だって二人が共有することはないし逃げ道を確保してくれるはずもない。半端なあがきは後の拘束を強めるだけなのに、それを理解しながらも引くべき場所も留まるべき場所も弁えられない愚か者。

「――次で降りるか」
「叶?」
「そんで歩いて帰る」
「……うん」

 タイミングよく次の着駅を告げるアナウンスが流れる。通り過ぎた駅はきっと一つか二つ。それでも普段は歩かないような長い距離を歩くことになるだろう。元々早くもなかったスピードを、電車は更に落としていく。その反動で上体が揺れても繋いだ手はずっとそのまま。寧ろ離れてしまわないようにと握る手に力を込めた。
 次の駅で降りたらそのまま歩いて帰る。既に沈みかけた太陽が完全に落ちて暗闇が辺りを覆っても、この手さえ繋いでいるのならば迷うことなく帰れるような気が、叶にはしていた。それすらも、きっと幼い錯覚に違いないのだろうけれど。瑠里が本当に小さな声で呟いた「ありがとう」だって、絶対に聞き漏らしたりはしない。
 短い逃避行の終着駅は、もう直ぐそこだった。





 結局その日、二人が家に帰ったのは夜の九時を少し過ぎた頃。瑠里の帰りが遅いことを心配した彼女の母親が執拗に鳴らす携帯の着信を無視することが出来なかった。それで大事になっても困るからと電話に出た瑠里の耳に届いたのは今にも泣きだしそうな母親の声で、心の底から心配している気配がひしひしと伝わってきて申し訳なくなってしまう。居場所を聞かれて当惑する瑠里から携帯を受け取って叶は手短に現在地といきさつを彼女の母親に説明した。それからはもう絶対に大人しくそこを動かないで待っていてと懇願されて、あれよあれよという間に車で迎えに来た彼女に自宅まで送られた。幸い、一番口煩そうな祖父は付き合いで外泊しているらしい。年頃の娘が抱える不安や不満に心当たりがあるのか、瑠里の母親は叶を責めるどころか娘と同様に礼を伝えてきたものだから、叶は思わず頭を下げてしまった。後部座席に並んで座っている二人の手はもう繋がれてはいない。瑠里は叶だけに聞こえるようにまた「ありがとう」と礼を言い、自宅前で下された彼に小さく手を振って別れた。本当に、呆気ない終わり。叶のちっぽけな気持ちでは何もできないという無力の証明にしかならなかった、そんな夜の出来事だった。
 後日、風の噂で瑠里が祖父と大喧嘩をしたという情報が叶の耳にも届いた。女子である瑠里の行動が男子棟にまで届いてくるのだからよほどの騒ぎだったのだろう。原因は孫の進路を祖父が勝手に決めつけようとしていたことに瑠里が猛反発したこと。自身の両親が祖父に強く出られない手前、従ってしまえば良いんじゃないという周囲の空気を吹き消さんばかりの剣幕だったらしい。
 それを聞いて、叶はピンとくるものがあったのだけれど。それを誰かに打ち明けるということもせず、瑠里に確かめるということもしなかった。ただ机に頬杖を着きながら窓の外、空をぼんやりと見上げながら思う。
 いつかまた瑠里とあの電車に乗ることがあったら、今度はちゃんと終点まで乗りつけたいと。そして二人手を繋ぎながら行ける場所まで行ってみたいと、そんなことを思っていた。



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