※命→(←)瀬名/相変わらず暗い/『いつまでたっても暗闇』の続き


 一人の人間が形成する世界など結局は狭い円の様な物なのだろう。深浅の違いはあれど結局は繋がっている誰かにばかり目が行ってしまうのは当然のこと。赤の他人にそこまで傾倒する人間がどこにいるというのだ。
 命が平聖中央病院で形成する世界の中で、瀬名は最初に彼の世界に入り込んだ人物である。好意的に自分に接してくれているのは日常の態度の中からも明らかで、それを嬉しく思いながら安穏とその好意を享受して来た。確実に広がるひび割れには、鈍い命には気付きようもなく瞬く間にその範囲を拡大していた。壊れてからでないと、何一つ気付くことが出来なかった。

「瀬名さん、」
「――はい」

 いつかの花咲くような笑顔は、今の命と瀬名の間には存在していなかった。気付かぬ内に、散らせてしまっていたのならば、それは一体誰の責任なのだろう。恐らくは、自分なのだろう。命が瀬名に声を掛ける度、二人の間に少しずつ広がる溝が顕在化する様で辛かった。怯えもなく悲しみもなく、それでも痛みは確かにそこに在り瀬名の瞳は命を映さない。
 自分が何かしたかと尋ねることはきっと無意味だろう。尋ねた所で、命もまたどうしようもない。「好き」という日本語は便利で厄介なのだと、最近では思う。瀬名は自分を好きでいてくれていると思い込んでいた自分は、一体どの「好き」で彼女を測っていたのだろう。もしもそれが恋愛に於いての二文字ならば、自分は大分傲慢で自惚れが過ぎた。相手からの気持ちを察しながら何もしてこなかった自分がどうしようもなく愚かしくて力なく唇を噛んでも何も込み上げては来ない。
 仲が良いで済ませるには、自分達はもう良い大人だった。男女が並び立つことに不自然は無くとも寄り添うにはきっと別の気持ちが含まれている。邪推では無く、きっとそうなのだ。それが温かいか、冷たいかは当人達だけが知り得ることだから、命は傍観者のまま何一つ理解できずぼんやりといつも瀬名を眺めることしか出来ない。
 既に大人である瀬名を表現するのには適していない言葉かも知れない。それでも、最近の瀬名の笑顔はどこか大人びていて、命はあまりその笑顔が好きでは無かった。明らかに裏に何かを隠す笑顔は彼女が纏うには痛々しい。単純なまでに笑って泣いて怒る瀬名を望むのは、お門違いかもしれない。それでも。
 名前を呼んで振り向かせてはみたものの、その先に続く言葉が命には浮かんでこない。少し前は一体何を話していたのか。思い出せば結局は瀬名から近寄ってきてくれるのを当たり前に受け身で待っていたに過ぎない。何もしてこなかったから何も出来ない。無力とは違う絶望感に、命は少しだけ泣きたくなった。今涙を流したって瀬名は拭ってなどくれないだろうけれど。
 危や雅はどうしているのだろう。普段なら呼ばずともやって来る彼らの姿も、今日はまだ見ていなかった。それでも懐かしくなどない。瀬名と並んで話している姿なら、遠目に何度か見かけているから。自分だけが、上手く行かない。距離がある。気付けば疑いにも似た現実は命の目の前にちらつき出す。「嫌い」、年を重ねればきっと容易に他者に向けることもなくなる言葉。しかし誰の内側にも存在している筈の二文字を、もし瀬名が自分に向けているとしたら、どうしようか。それでも自分は瀬名を嫌いにはなれないと分かり切っているのに。

「瀬名さん、」
「はい、」
「俺、瀬名さんのこと好きだよ」
「私も西條先生のこと、尊敬してます」
「うん、ありがとう」

 ここまで噛み合わないとは、正直思っていなかった。辛くはないけれど、やはり寂しいと思う。尊敬しているというのは、自分の医者としての技量の面の話であって、一人の人間との付き合い方に影響を与えるようなレベルの評価なのだろうか。好きだと理解して欲しい。瀬名が欲しい。
 好きと尊敬は絶対にイコールではないと瀬名は知っているだろうか。好意を理解されずに傷付いたのは命の方なのに、瀬名だって何所か傷ついたような顔をしてまた大人の様に微笑んでみせるから。だから命も釣られて笑ってみせる。きっと引き攣っているだろうけど。無意識だろか、俺の笑顔を見た彼女が一歩後ろへ下がる。怖がらせるような表情をしたつもりはない。仮にも子供と日々向き合っているのだから、笑顔が怖いだなんてあり得ないと自負しているのだが。
 こんな時、危や雅なら一体どうするんだろう。瀬名さんはこの二人とは普通に話して傍に立っているんだ。特に最近は雅と仲が良いように見える。だけど、付き合っているようには何故か見えない。少しだけ願望を含んで彼女の住む人間関係を眺めているのが、最近の俺だった。正しくは、眺めているしか出来ないのだ。

「瀬名さん、」
「はい」「ごめんね」

 瀬名さんは、俺の言葉の意図が掴めずに首を傾げる。話し掛けても返事しかして貰えないことが多かったから、こんな珍しくもないような彼女の仕草がやけに新鮮で、逆に懐かしくも感じられる。気付けばもう俺は大分深い所まで彼女に浸食されていたのだろう。このごめんは、もし俺がこれまで彼女に辛い思いをさせたのならば、の謝罪。それと、これからももしかしたら彼女を苦しめるかもしれないから、先に告げておく謝罪。
 好きだと打ち明けても届かない気持ちはどうすれば伝わるのか、恋愛など医療の二の次どころかずっと後ろに除けてきた俺には皆目見当もつかないけれど。それでも諦めるつもりもなく先程瀬名さんが開けた俺との間の一歩を大股で詰める。途端不安げに揺れた彼女の瞳を見詰めながら、もしこんな色を瞳に宿す相手が俺だけであるのなら、それも悪くはないかと思ってしまう俺は、きっと酷い男なんだろう。俯きかけた彼女を解放してあげる選択肢は自然と抹消されていて、俺は彼女の反応など分かり切っているのにそれでも彼女の手を取った。逃げるなら、逃がさなければいい。それだけ。



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しらないあいだにぼくらはゆがんで
Title by『joy』



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