夏特有の澄み切った、しかし迫ってくるような青を湛えた空の端っこに立派な積乱雲が鎮座したままもう数時間になる。本当は、じりじりと動いているのだろう。肌に触れる風は夏の暑さに加担しているのか一向に吹き抜けてはくれないけれど、それでも雲は流れるものの筈だから。
 花井が見上げている方向とは逆の空を見上げながら、百枝が「夕立が来るね」と呟いた。花井はキャプテンとしてそれじゃあ夕方の練習メニューはどうするのかと尋ねたかったが、その為に息を吸った瞬間、自分の喉が異様に乾いていることに気が付いてただ頷くことで彼女の言葉に同意を示すことしか出来なかった。
 汗と泥に塗れながら白球を追うことを本懐としているかどうかは別として(勿論清潔で済むならそれに越したことはないが)、汚れた分だけ努力したような錯覚に陥るのは良くないことなのだろう。汚れが練習量に比例して、練習量が努力に比例すると考えた方が正しい。だが努力が成果に比例するかと言うとそうでもないのだから悲しい。そんなことは当たり前だと、しかしその努力をしなければ得られない成果が欲しければ挑むしかないというのが花井の現状で、随分夢中になっている現時点では物思いに割くような時間は殆ど残されていなかった。キャプテンとしての役割だとか、打順4番の存在感だとか、それに対する百枝からのプレッシャーだとか。こなすとも目指すとも応えるとも決めたのは花井自身で、それは誰の為と言うなら自分の為で、自分で言うと自惚れるなと羞恥心に襲われるから言わないがチームの為にもなるのではないかと思っていたりもする。
 このまま練習の終わらない内に、あの空の端からやって来る雲が夕立を降らせたとして。バッティング練習はきっとそれまでには終わるだろう。内野の守備練習はぎりぎりで、外野はラグビー部がグラウンドを使用しているから駄目になるかもしれない。ランニングは雨でも構わないし、筋トレならば雨に濡れることもないし悪天候時の部活動としては定番だ。
 けれど。
 筋トレは大事なこととは知りながら、どうにも気が乗らないというのが花井の心境だった。野球をするうえで必要なことが、必ずしも野球自体ではないことは西浦に進学してから嫌と言うほど実感したものだけれど。メントレ、栄養学、氷鬼、スケボー、周辺視、瞬間視の強化だとかその他諸々。楽しく質高く効率よく。百枝のスタンスに不満はなく、きっと実際に筋トレを始めてしまえばあっさり必死になってしまうのだろう。所々に盛り込まれた遊び心に踊らされて。花井はそんな風に、全てやり終えてから百枝の意図や配慮に気付く度にちょっとした息苦しさを覚えてしまう。
 23歳と16歳。7歳差と言う漠然とした距離。365日×7年で2555日。閏年だとかは面倒だから省くとして。長いだろうかと悩めば即座に長いだろうなと答えが出せる。花井が百枝に並ぼうと思ったとすると(その間現在の百枝は当然先に進んでいるということは目を瞑っても)小学校を1年から6年までやり直したって足りないのだから。0歳と7歳、小学1年生と中学1年生。部員と監督。学生と社会人。何一つ身近には寄り添わなくて、花井は自分の生年月日の生年の個所をいつだって塗り潰したい。尤も、花井が百枝と同級だったと想像しても、きっと彼女には勝てないだろうなとはなんとなく察しがついている。要するに自分は、百枝まりあという女性に対して秀でるどころか対等に立てないことを自覚してしまっていることが情けなくもどかしいのだなという結論に行き着いた。対処法は今の所、思いつかない。

「筋トレでも良いけど、天気予報だと時間的には練習終盤だろうし、短時間で止むみたいだけど――。花井君、どうする?」
「へ?」
「雨が降ってから始めたんじゃ移動時間とかどれだけ急いでも十分な筋トレは出来ないよ。でもかといって雨も降ってないのに筋トレとかしたくないんじゃない?前もって予定が立っているならともかく。特に今日はグラウンド使えるのが午後からだからね。午前はバットにもグローブにも触ってない。となるとちょっと雨に濡れるくらいなら問題なしってことで外野の守備練習するのも良いよね」

 花井の返答を待たず、百枝は彼が補ってほしかったであろう言葉を全て紡ぎ終えた。これで百枝の見ている部員たちが女子だったならばキャプテン一人に決定権を委ねる真似はよろしくないのだろう。しかし目の前、周囲。百枝が関わっている子どもたちは見事なまでにそのままの少年たちだった。エース辺りは特殊な例だろうが、他の面々は各々個性を持ちつつも高校生ですと名乗られれば「ああ普通の高校生だな」と自分の過去と照らし合わせてもぶれることのない学生だ。野球部員としては至極真っ当に良い子たちで、百枝の試行錯誤と彼ら自身の上昇志向と行動によって部活動は今の所順調に活動を続けている。部員がいて、それだけで百枝からすれば夢の様である現在は、いつか彼等にとって過去になる。それは百枝にとっても同様だが重みはきっと違うだろう。傾けている情熱は、ひょっとしたら百枝の方が長く生きている分重いかもしれないくらいなのに。きっと、花井をはじめとする少年たちの中で振り返る方がずっと輝いているような、そんな気がしている。目指す場所の影すら踏んでいないというのに、通り過ぎた場所でのもしもを想像するのは無駄だし、いけないことだとは思う。子どもたちにとっての現在が全てであろうことを理解する度に、百枝にとっての現在は過去に引きずられた残骸と、最後の悪足掻きにように思えてならないことがある。
 そしてそんな馬鹿げた考えを振り払う度に自分はもう大人なんだからと唱えるのだ。子どもと大人の境界線を跨いできっちりこの瞬間から変わったという明確なものは何一つないけれど、彼女は大人なのだ。だから彼等は自分を監督と呼んで信頼し得るのだと。その自覚が、百枝には何よりも自身を安定させる為に役立つことを知っていた。ここは、彼等のフィールドなのだ。

「――監督?」
「…ん、ごめん何かな?」
「えっとさっきの話、別に雨に濡れてももう十分汚れてるんで、守備練で良いと思います」
「――そう、じゃあそうしましょう」
「降らないのが一番良いんすけどね」
「それはそうだけどね」

 花井の言葉に、百枝は微笑んで頷いた。何故か、夕立が降らないという発想がなかったことがおかしくて。もしもそれが、過去の経験からあの雲は確実に降らせるよという思い込みが百枝に働きかけたのならば、花井の言葉は遠足前の子どものようにも感ぜられる。天気予報とは無関係に、ただそうあればいいのにという純粋な願い。
「――歳かなあ…」
 突然の百枝の溜息に、花井がぎょっと目を剥く。突然こんなことを言われたら、真面目な若者の男の子はさぞ混乱するだろうなあと申し訳なく思いながら、内心百枝は花井の反応を少しだけ楽しんでいた。まさか花井が「歳とか関係なく俺は」なんて、監督と部員である為には相応しくない物騒な言葉を必死に噛み殺しているとは気付かないまま。積乱雲は少しずつ近付いている。やはり、雨は降るだろう。



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邪推させたい
Title by『ハルシアン』




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