ぱちん、と栄口が携帯を閉じたのを見た阿部は、普段なら気にも留めないその動作が発する音が今日は妙に耳障りなことに首を傾げた。不愉快とまではいかないが、しつこいと思う程度にはぱちん、ぱちん、という音が今日だけやたらと繰り返されている気がするのだ。夏の夜に、自分の枕元を虫が飛びまわっているような、あの苛立ちを薄めたような感覚。そして阿部は、その苛立ちを自分の身勝手だと内側で消化することをしない男だ。

「…栄口、携帯うるせえ」
「え?携帯?サイレントだけど?」
「さっきから開けたり閉じたりし過ぎなんだよ」
「あ…ああ、ごめん」

 阿部の意図することを察した栄口は素直に謝罪し、それまで直ぐ手の届く所に置かれていた携帯をズボンのポケットの中にしまった。それでもまだ携帯が気になるのか視線を下に向けてしまった栄口に、阿部は意味が分からないと露骨な溜息を吐いて窓の外を見た。今日は、朝からずっと雨だ。
 朝から雨だったので、放課後の部活は中止になった。筋トレをすることも出来たのだけれど、監督が前々から今日は予定があるとのことだったし、他の部活動との場所の兼ね合いもあって中止と決定した。だけども花井が次の練習試合に関する打ち合わせだけでもしておきたいと言い出したので、結局部長と副部長の三人組だけが放課後残って花井と阿部の在籍している七組で軽いミーティングをしていた。が、肝心の言いだしっぺである花井が顧問である志賀に呼び出されてしまった為、阿部と栄口はただ椅子に座って待っている。教室の学習机を囲むように置いた三つの椅子は、男子高校生がこぞって座るとよほど行儀良くしなければ膝同士がぶつかって鬱陶しい。

「花井遅いなあ…」
「……お前、予定あったんじゃねえの?」
「は、」
「だからさっきから携帯気にしてんじゃねえの?」
「あー、いや、用事っていうか…約束?」
「約束だって用事だろうが。用があるならあるって言えばよかったじゃねえか」

 歯切れの悪い言葉を続ける栄口に、阿部の口調も自然とキツくなっていく。元来、はっきりしないことが嫌いなのだ。雨の所為で立ちこめた湿気だって鬱陶しいし、花井が戻らないうちに広がって行く教室の薄暗さも面倒だ。栄口は、携帯を気にするのと同じ瞳で窓の外を見ている。雨量を気にしていたとしても、雨は朝から変わらず本降りだ。部活を諦める程度には。

「友井さんとさ、一緒に帰る約束してたんだよね」
「はあ?」
「朝から雨だったし、このまま止まなかったら部活ないから一緒に帰ろうって俺から誘ったんだけど」
「………」
「ミーティング入っちゃったからさ…」
「待たせて悪いってこと?」
「いや、一緒に帰れなくなっちゃったって昼休みの内にもう言ってあるんだ」
「……」
「仕方ないよね」

 そう言う割には、やたら携帯を気にするんだな。そんな不躾な言葉は、阿部が言わずとも栄口自身がどうしようもないと呆れているのだろうから言わない。困ったように笑う栄口のそれは、呆れと同時に諦めで、割り切らなければならないことを知っているのだろうけれど、阿部から言わせればそれは只ストレスが溜まるだけだ。
 何故一言、待っててと相手に頼めないのだ。断られたらショックだろけれど、断るような相手じゃないし、関係でもないのだろう。付き合っているとは聞いていないが、わざわざ昼休みよりも前に声を掛けて一緒に帰る約束を取り付けるくらいなのだから、目的地はそこだろう。悶々と考えて、そういえば、今日は同じクラスの友井と篠岡がやたら一緒に興奮していたというか、騒いでいたとまではいかないが、いつもよりテンションが高かったような気がすると思い当たって、そこからさらに思考して推理する。それなりにデータがあれば、読める。
 申し訳ないが、言葉にしないだけで、部活の連絡と称して栄口がこの七組にやって来る度に視線をぐるりと巡らせていることくらい気付いているし、同じように篠岡が手を引いて歩を促すのに対して友井が首を激しく振りながら抵抗している光景を目にするのも、栄口が七組にやって来ている時なのだ。阿部は、普段そういうことに気付いても、わざわざ因果関係を付き詰めたりはしない。自分とは無関係な所で起きたことなど、視界に留めて探れば出てくるが、機会が無ければ時間と共に消えていく。まあ、今回は栄口の運が良かったということで。

「栄口、お前もう帰れ」
「はい?」
「いつまでも戻ってこない花井が悪い。だから帰れ」
「いやいや、無理でしょ。これも部活なんだから」
「心此処にあらずのお前がいても役立たず。だから帰れ」

 帰れ帰れと連呼されては、じゃあお言葉に甘えてというよりもよほど相手の機嫌を損ねたのかという不安が浮かぶが、阿部に対してそれを憂いては心臓が足りない。栄口はどちらかというと神経が細い方なので、明日花井に怒られたら阿部に責任を取って貰おうとそれだけ決意して、渋々席を立った。鞄を手にしながら、最後に阿部をじっと見つめる。阿部は栄口からの視線を受け取ると、「何だよ」と眉を顰めた。そうするだけで、まるで睨みつけているように見えてしまうのだから、阿部は人相が悪いと思う。

「…じゃあ、お先に」
「おー」
「……本当に大丈夫か?」
「うっせえなあ、花井戻る前に帰れよ」
「んー」

 納得いかないと言いたげな表情を隠すことなく、栄口は一人薄暗い廊下を歩く。このまま一人で家路に着かねばならないことを思うと、何で今日に限って部長と副部長だけの打ち合わせなんて入ってしまったのだろうと悔まずにはいられない。
 それなりに、勇気を出して誘ったのだ。そして、栄口からの誘いを了承してくれた時の紋乃の表情と、自分で誘っておきながらそれを反故にしてしまった時の紋乃の表情を思い返して、栄口の気分は校内の薄暗さより遙かに暗い気持ちに落ちて行く。

「――栄口君?」
「え、」

 扉が開いているせいか、昇降口の気温は雨の所為で教室よりもずっと低く感じられ、ひんやりとした空気の中に土と草の匂いが混じっている。そんな静かな空間の中から、自分の名を呼ぶ声が聞こえて、栄口は一瞬身体を強張らせてしまった。だが本当にそれは一瞬で、直ぐに自分の名を呼んだのが友井紋乃だと気付いて今度は呆気に取られてしまう。その間にも、彼女は嬉しそうに栄口の目の前まで近付いて来ていた。

「もう部活終わった?」
「え、え…友井さん?」
「あ…その、ごめん、待ってたんだけど…」
「いや、いいけど寧ろ嬉しいけど…、だったら言ってくれれば良かったのに!」
「えっ、でも…一緒に帰れないって言われちゃってたし……」

 段々と申し訳なさそうな表情になりながら俯いてしまう視線に、気にしなくていいと声を掛けながら栄口は早めに打ち合わせを上がれてよかったと安堵した。このまま花井を待ち続けて、此処に紋乃を待ちぼうけにさせずに済んだのだから。
 もしかして阿部はこの事態を予測したから自分だけ先に帰るようやたらとしつこく迫ったのだろうか。だけど阿部だしなあと素直にこの可能性に賭けることの出来ない自分が情けない。
 阿部にどんな意図があったにしろ、結果として自分がこうして本来の約束を破らずに済みそうなのは事実なのだから、それで良いじゃないかと思うことにする。

「友井さん、」
「……?」
「一緒に、帰ろっか」
「…うん」

 微笑みあって、傘を差す。雨は絶えず止まないけれど、その音にお互いの声を拾い損ねることもなく、ただ隣に並んで歩くだけ。たったそれだけの為に、栄口は随分と勇気を必要としたし、紋乃も待つことをしなければならなかったけれど、また一緒に帰りたいなと次を望む程に、二人はお互いの隣りを心地良い場所と感じていた。


 翌日、結果論からしてそうすべきだと感じた栄口は阿部の元へと礼を述べに言った。すると阿部は「ああ、」とどうということもないといった風に、言った。

「あれだけ教室で栄口と一緒に帰れるって嬉しそうにしてたんなら、まあ待ってるだろうとは予想がつくだろ」

 悪い笑顔を浮かべながら言い放った阿部に、栄口はただ赤面して黙り込むしかなかった。


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予定は調和させません
Title by『ダボスへ』




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